矢村君のこと

 伊丹十三のナレーションで、昔、味の素のテレビCMがあった。
相模湾の鯵と、大分県のカボスが、東京のわが家の食卓で出会うという、奇跡的な、本来ならありうべからざる偶然のめぐりあわせがナンタラカンタラで、絶妙な取り合わせとなったのですね、これが」
 うろおぼえだが、こんなふうな内容だったとおもう。
 たしかめるために、矢村君に携帯で電話をした。台風で電波の具合でもわるいのか、おたがいの話がよくききとれない。じゃあまた、といって通話を切ったが、よく考えると目の前に受話器があった。風雨が強くても、電線のなかならだいじょうぶだろう。
 大手の広告制作会社というのは、交換手がいるのだろうか。それにしては、制作現場の女性ディレクターのような感じの声が、用件をきいてきた。
「社長の矢村さんをお願いします」
 矢村君は、10年前に、40代半ばで社長に就任した。入社当時の事件を知るものにとっては、ちょっと信じ難いことだろう。
 矢村君は、大学を卒業すると、劇画のシナリオライターの秘書になった。当時は代官山のビルのなかに事務所があり、シナリオライターの秘書2人は、代わりばんこに24時間勤務についていた。
 矢村君は、なかなか時間の自由がきかなくて、ぼくはよく買い物をたのまれたから、夜、社員がいなくなった事務所(といっても、ビルの何階かを全部使っていた)に届けにいった。
 先生、とよばれていたシナリオライターは、書けなくなるといじわるになるそうで、矢村君は、一度だけ、泣きながら抗議したことがあったという。
「ぼくは、先生のために、よかれとおもって尽くしてるつもりです。それを、理不尽に叱られては、ぼくはどうしていいのかわかりません」
 訴えながら、涙があふれてきた。先生であり、社長でもあるシナリオライターは、すこしタジタジしたように見えたが、いや、そんなつもりはなかった、といった。きみがそんなふうに感じていたのなら、謝ろう。
 それから、いじわると感じることはなくなったが、こんどは、自分が仕事に不満をいだきはじめた。たしかに、社長のシナリオライターは才能にあふれており、これからもよい仕事をして数十人もの社員を養ってくれるようにおもえたが、それを支える自分は、しっかりと手につかむことのできる達成感や満足感といったものからは、ずーっと遠いところにいなくてはならないようにおもえた。そんなとき、新聞の求人広告に目が止まった。広告制作会社だった。T新社という社名は、ときどきテレビで見かけたが、どんな仕事が待っているのか、そしてどんな未来がひらけることになるのか、まったく見当がつかなかった。
(つづく)