田村隆一さんのこと

 砂糖部長に田村隆一の「詩人のノート」を貸した。
 この本は、箱に入っていないから、部長夫人が箱を踏みつぶす気づかいはない。
 ソフトカヴァーの表紙をめくると、見返しにサインペンで署名がある。まず、ぼくの名前が書いてあって、となりに「1977年2月27日」、それから「隆一」とある。
 これは、当時稲村ケ崎に住んでおられた田村さんを訪ねたとき、いただいたものだ。それまでに上梓されていた詩集とエッセイ集のほとんどを、手提げの紙袋に詰めて持っていった。矢村海彦君がいっしょだった。
 詩人は、二日酔いより重い三日酔いだといって、2階の書斎兼ベッドルームで横たわっていた。パジャマのウエストのゴムがお尻のあたりでまるまって、パジャマがめくれてパンツが見えていた。
 6畳ほどの部屋で、ベッドの脇にシンプルな木の机と椅子が据えてあった。中学生が勉強するような机だった。机の上には、貰いものだという400字詰めの原稿用紙が置いてあった。それから、パイロットの細字のサインペンがころがっていた。原稿は、もっぱらこのサインペンで書くのだといった。(後年、テレビでみた田村さんの書斎は、豪華な机が置いてあり、万年筆もパーカーのデュフォールドにかわっていた)。
 ぼくらは、詩人にちからがよみがえるまで、夫人に出されたお茶を飲みながら、じっと待った。無精髭を生やした詩人は、だんだん元気を回復すると、にわかに饒舌になって、よくこの家がわかったね、といった。ぼくらは、駅前の公衆電話の電話帳で住所を確かめてきました、と答えたが、そのとき持参した最新の詩集「死語」のなかの詩に、ちゃんとこの家の住所が書かれているのが、あとになってわかった(こういうのって、なんだか恥ずかしい)。
 詩人は、机に向かうと、ぼくと矢村君の本にサインをしてくれた。1冊1冊、奥付けを見て、初版かどうか確認しているふうにみえた。
 ぼくは、その5カ月後に銀座のフジヤ・マツムラという洋品店に入社した。まだ学生だった矢村君は、しばらくしてからまたひとりで詩人のもとを訪ねて、ぼくが就職したことをついでに報告した。
「それじゃあ、替え上着でも買いにいくかな」
 田村さんがそういった、と矢村君がおしえてくれた。もし、この大男の詩人がやってきて、うん、舶来はやはりいいね、ぼくにぴったりだ、これにしよう、といったら、先生、これはお高いからおやめなさい、とはとてもいえそうもない。そのまま着て帰られたら、ぼくが勘定を立て替えることになるのかなあ、こまるなあ、とちょっと心配になった。
(つづく)