矢村君のこと その2

 矢村海彦君は、佐賀の出身だった。2年浪人して早稲田大学商学部に入学した。
 浪人1年目は、上京して都内の予備校に通った。通った、というのは言葉のあやで、正確には通わないで、地図をたよりに東京じゅう、うかれて、はしゃいで、歩きまわった。地図は、父親のくれた「東京うまいものマップ」だった。
 そんなことで希望大学に受かるはずもなく、怒った両親に郷里につれもどされた。両親は、二人とも高校の教員をしていた。浪人2年目は、親の目のとどくところで勉強させられた。
 もともと成績優秀で、現役のときも学習院大には合格していたのだから、1年間、きちんと勉強しさえすればよかったのだ。ちょっと詰めの甘さがあるのは、おばあさん子で、乳母日傘で育ったからだろう(註、「乳母日傘」おんばひがさ。「乳母よ日傘よと子供を大事に育てること」岩波国語辞典第二版)。
 実際、彼がもっとも恐れていたのは「ばあさま」で、留年して4回生をくり返すとき、こわがったのは両親ではなく、「ばあさま」だった。
 その春は、ぼくは商船三井のアルバイトをやめてヒマだった。まだ大学には籍があったが、もどって授業に出る気がしなかった。4年間いた別の大学をやめ、受験しなおして入った大学だったが、いつしかまた4年がたっていた(ここの同級生のひとりは、現役で合格したからぼくより6つ年下だったが、春休みになると学生課でアルバイトをしていた。2年に上がった年の春、成績表を取りに学生課に行くと、彼がいて、「やあ、タカシマさん、お元気ですか」といった。 1年後、また彼がいて、「よお、タカシマくん」と声をかけてきた。「どうしてるの? あまり大学に顔みせないようだけど。そういえば、きみと同い年のクマさんは、いつのまにか退学したよ」。また1年たって、窓口に行くと、やはり彼がいた。「おい、タカシマ」と横柄な口調で彼はいった。「おまえ、なにしてんだよ。そんなことじゃ、卒業できないぜ」)。
 矢村君は、富士急ハイランドのレストランに、泊まり込みでアルバイトに行ってくる、といった。
「それでですね、留年の通知が大学から実家に行くと、きっとばあさまから電報が届くとおもうんですよ。すみませんが、おれの下宿に泊まってくれて、もし電報が届いたらアルバイト先に電話してほしいんですけど」(矢村君の下宿には、電話がなかった。それと、矢村君の学資を払ってくれるのは、ばあさまだった)
 矢村君が、年少の友人の田西君とアルバイトに行っているあいだ、1週間ほど彼の下宿でぼくは暮らした。朝はインスタントコーヒーにトースト、昼と夜は駅前まで行ってなにか食べた。夜はついでに銭湯に入ってきた。彼の下宿に陣取って、一日じゅう本棚の本を読んでいても、ぼくにはどこからもアルバイト代は出ないから、こんな話をひとにすればきっと首をかしげるだろう。
 佐賀のばあさまからの電報は、結局届かなかった。
(つづく)