ラーメンの値段

釜本次長にくっついて、広島に自動車外商に行った。
 福山城の近くに福山グランドホテルというホテルがあって、福山に行くといつもそこに泊まっていた。顧客がホテルのオーナーで、宿泊した部屋を商売に使わせてもらえたからである(梅ちゃんが寝小便したのはこのホテルです。註、2006-04-16「梅ちゃん 最終章」参照)。
 廊下の突き当たりの部屋を、向かい合わせでとると、店舗が2軒できることになる。店舗といっても、ベッドは片付けるわけにはいかないから、まあ、店のような空間といった感じか。お掃除担当の女子社員に鼻薬をかがせておいて、朝食を摂りに行っているあいだに部屋を掃除してもらい、きちんとベッドメイキングもすませてもらっておく。朝一番の顧客は、10時頃にはみえるからだ。
 このホテルで商売をすることは、前もって顧客に次長が手紙で知らせてある。着いた晩には、土地の顔役ふうの顧客の家に挨拶にうかがって、きちんと筋を通しておく。さもないと、鶴の一声でだれも顔を見せないことになってしまうからである(註、2006-08-06「夏のつぶやき」参照)。
 その年は、途中で事故の渋滞に遭遇して、夜分に福山に入ることになった。夕飯もまだだった。そこで、町に入ったところで車を停めて、学生アルバイトの運転手と3人で深夜営業のラーメン屋に寄った。意外にラーメンはうまくて、トクした気分で店を出た。
 車がホテルに向かう道に入ったとき、次長がギャッと叫んだ。
「バッグがない!」
 ぼくは、後部座席から首を伸ばして次長の膝元を見た。次長の見慣れたバッグは、ズングリ太い膝の上にちゃんとのっている。
「あるじゃないですか、次長」
 ぼくは声をかけた。次長がふり向いてぼくを見た。顔が真っ青だった。
「これじゃなくて、もうひとつのほう」
 次長の声が震えた。もうひとつのほうって、それは貴金属の入ったバッグのことか。
 指輪とかネックレスとか、貴金属の装身具をしまっておくバッグを、いつも外商のとき携行していた。ふつうのセカンドバッグで、だれもそんな大事なものが入っているとはおもわないだろう。
「さっきのラーメン屋で、カウンターの下に置いたんだ。取り出すとき、自分のバッグだけ掴んで、うっかり置きっぱなしにしてきちゃったよ」
 運転手が急ブレーキを踏んだ。そして、あわててUターンすると、おもいっきりアクセルを踏み込んで、いま来た道をフルスピードで戻りだした。ラーメン屋には、1秒で着いた。次長がドアを蹴破って飛び降りると、ズングリした足ですっ飛んで行った。
 1分後には、3人はまたホテルに向かって車を走らせていた。次長の薄い頭は、汗で湯気を立てていた。
「ああ、よかった。なくなっていたら、大変なことになるところだった」
「でも、保険をかけてあったんでしょ?」
 ぼくは、後ろの席から声をかけた。
「かけてない。いそがしかったんで、かけるの忘れてた」
「忘れてたって...」
「あーあ、バッグなくしたら、1杯1千万円のラーメンになるところだった」(いつも3千万円くらいの貴金属を持って歩いていました)
「次長、違いますよ。それをいうなら、1千万5百円のラーメンというべきです」
 ぼくは、後部座席から次長の薄い頭を眺めながら、いった。