ゴムの木 1

昭和48年6月20日第1刷発行、と奥付にあります。「庄野潤三全集」全10巻の第1回配本第1巻は、ぼくが最初の大学を途中で(4年通って)やめて、もう1度1年生からやりなおしはじめた年に講談社から刊行が開始されました。
 それまでに読んだ庄野潤三の作品は、筑摩書房から昭和35年に出た「新選現代日本文学全集」の「33.戦後編2」に収録された「流木」と「プールサイド小景」だけでした。どちらも短篇で、暗い感じがしました。
 庄野潤三は、第三の新人と呼ばれる作家の一人です。ぼくは吉行淳之介が大好きですから、吉行と交遊のある、この一見地味な印象の作家にも興味を持っていました。それで、全集が出たときは、これでまとめて作品が読めるぞ、とわくわくしました。実際、庄野潤三は、平明でありながら深く、明るく人生の喜びを描こうとする作家で、ぼくを大いに喜ばせました。
 ところで、この全集には、のちに芥川賞を受賞する阪田寛夫が「庄野潤三ノート」と題して解題を寄せています。そのなかに、「作家として、庄野さんは通常、私小説の書き手と目されている。そういう分類も無理からぬところがあって、たとえば第一創作集の中にしばしば出てくる三歳や四歳の女の子が、その後の作品の中で年と共に大きくなり、立派な娘さんになり、学校を出て就職し、二十四冊目の「野鴨」ではねんねこで赤ん坊をおぶって、両親の家に現れるのである。」という記述があります。私小説の要素は十分あるけれど、といっているようでした。
 ぼくは、この全集が出た年から商船三井でアルバイトをはじめました。いくらなんでも、いつまでも親のすねをかじっているわけにもゆかず、大学図書館で新聞広告を漁ってアルバイトをさがしました。船会社のカーフェリーの受付け業務を見つけて、のこのこ面接に行きました。京橋のフィルムセンターのそばのビルに、大阪商船三井客船(MOPAS=M.O.Passenger)の事務所はありました。
 総務課の当時嘱託だった安田さんがぼくの面接をしてくれて、フェリー埠頭勤務は定員に達したのでもう必要ありません、とやさしい声でいいました。この慶応出身のオールドボーイは妙にやさしい話し方をしましたが、あとで宝塚の熱烈なファンだとわかりました。それと、近くの甘味どころ「おかめ」に一人で入ってお汁粉を食べるくらい、甘いもの好きでした。
「そのかわり、ここフェリーセンターでもこのあと募集する予定なので、すこし夏休みには早いけど、よかったらやってみませんか?」
 薄い頭髪をポマードでぴったりとオールバックに固めたオールドボーイは、お汁粉が口に入っているかのような甘い口調で、ぼくの眼を見つめました。
(つづく)