ゴムの木 6

 大松さんは、東京商科大学(現・一橋大学)を卒業しました。貧乏でとても学業を続けていく余裕などなかったのだけれど、恩師や同級生の援助があって(学資を出してくれたそうです)、家庭教師をかけもちしてやっとのことで卒業できた、と大松さんはいいました。優秀な学生で、勉学をあきらめさせるにはもったいない、と先生が後押ししたのでしょう。それに裕福な家庭の友人たちが呼応して、生活費や学費の面倒をみたようです。昔の日本には、そういうところがありました。向学心のある学友に思う存分勉強させるのが自分たちの義務、と考える階級が存在したわけです。もちろん、見返りなんかは求めません。
 内田百間(本当は、門のなかに月が正しいのですが)先生は、「阿房列車」でヒマラヤ山系と呼ぶ青年を同行させます。青年は、なんとなくおっとりしたような、ぼんやりしたような性格に描かれています。この人は鉄道省の職員ですが、国鉄の機関紙「国鉄」の編集に従事しているとき、その縁で内田百間の知遇を得て、百間の全額出資で法政大学夜間部を卒業しました。百間先生といえば、借金の神様のような人で、ずいぶん貧乏を標榜した作家ですが、それでいてこういうことをしています。このヒマラヤ山系(平山三郎)は、鉄道旅行に同行しただけでなく、生涯を通して内田百間の身辺を描き、作品研究に当たりました。
 ニセコアンヌプリ、という地名が大松さんの口から出ました。
「若いとき、ニセコアンヌプリでスキーをしたんだよ」
 ぼくは、ぼんやりしていますから、どうしてニセコアンヌプリに行ったのかをききもらしました。
「スキーは人のを借りてね。スキーといっても、たいしたものじゃない、竹スキーだ。それで、山を滑って下るんだ。尻のポケットにスルメを1枚入れておいて」
 オーソンウエルズに似たアーモンドのような形の眼が、きらきら輝いています。
「友人たちと競って滑り降りたが、途中の崖でどーんと落っこちてな。何メートルも落ちて、腰からもんどり打って叩きつけられても、若いからアハハと笑ってまた滑るんだよ。
 そんな段差がいくつもあって、そのたびにだれかが腰から叩きつけられて、アハハだよ。身体じゅう汗びっしょりだ、湯気が立って。腰の手ぬぐいで顔をぬぐって、また滑りだすんだ。
 やがて麓に辿り着いて、降りてきた山を見上げてから、みんなの顔を眺めるだろ、すると黙ってみんな頷くんだ。もういっぺん。そういっているんだよ。スキーをかついでまた山を登るんだ。そう、若いから、ちっともくたびれない。青春なんていうものは、そのさなかの人間は自分は青春のなかにいるなんておもわないものだが、ふり返るとあれがぼくの青春だ」
 大松さんは、そういうとキャラメルを口に放りこみました。
「ああ、そうだ。尻のポケットのスルメのことを忘れておった。何度も何度も腰から落っこちただろう。スルメがクタクタにやわらかくなって、きみ、ノシイカになっているんだよ。金のない青年は、おやつがわりに、そいつを食べたものだ」
(つづく)