ゴムの木 最終章

 商船三井を辞めて1週間後、ぼくは面接を受けるために、日経新聞社にいました。以前、フェリー部でいっしょになった石井さんが、アルバイトに困ったら行ってみるといいよ、と教えてくれたことがあったからです。
 石井さんは、東京芸術大学の大学院生でしたが、大学に合格するまでに何年もかかっていたので、もうどう見てもオッサンでした。たまに助教授と間違えられるといいました。牛乳瓶の底みたいなレンズが、渦を巻いていそうな眼鏡をかけていました。
 べつにぼくと特別親しかったわけでもないのに、どうしてアルバイト口なんか教えてくれるのか。自分で行けばいいじゃないですか、とぼくがいうと、大学が忙しくて、日経の条件に合わなくなったから、と石井さんはちょっとくやしそうに答えました。
「それに、きみ、長く続けると、いずれ日経の社員に採用されるよ」
「ほんとですか?」
「ああ、どこの部に配属されるかわからないけど、そこの部で採用してくれるんだ。もちろん、しっかり働けばの話だけどね。もっとも、きみはこの会社に勤めることになるらしいから、関係ないか」
 日経新聞の担当者は、人事部の人ではなく、アルバイト専門に担当しているようでした。電話でぼくがアルバイトのことを口にすると、すぐに緊張した声で、だれにきいたのか、と詰問しました。そういう採用はしていないけれど、ともいいました。なんだか話が違います。ぼくはあわてて、石井さんの名前を出しました。すると、とたんに担当者の声の調子が変わって、とにかく一度来てみたら、といってくれました。
「いまあるのは、社会部の仕事。報道の手伝い。それでよければ、やってみないか」
「はい、ぼくでよければ」
「もちろんオーケーだよ。それから、ひとつだけ条件があるんだが、毎年、成績表をみせること。いいね」
 よろしくお願いします、と挨拶してぼくは席を立ちました。そして、そのまま日経新聞社には行きませんでした、電話一本で断って。
 ひとにこの話をすると、たいていバカを見る目で、ぼくは見られます。
(「ゴムの木」は、これでおしまい)