ゴムの木 17

 昭和52年2月20日朝、大松さんは逝去されました。最後の肩書きは、代表取締役・専務取締役とあります。
 数年前から、オイルショックが日本中を席巻していました。商船三井の京橋支社も、それと無縁ではいられませんでした。嘱託やアルバイトは、次々に会社を去っていきました。甘いもの好きの、あの総務の安田さんもいなくなりました。そんななかで、ぼくが残っていられたのは、大松さんの庇護があったからでしょう。ぼくは、まだ、正社員にはなっていませんでしたが、大松さんが裏書きしているので、だれも異議を唱えられなかったのかもしれません。
 大松さんが風邪をこじらせて入院すると、フェリー部からも矢吹部長と堀江課長、それに女子社員のウーが代表でお見舞いに行きました。大松さんは、ベッドの上に横たわって、元気で点滴を受けていたそうです。透析も休むわけにいかないので、けっこう大変なんだよ、といったそうです。
 大松さんは、そうして、ぼくのことばかりを話題にしたそうです。
「彼は、野球がうまい、野球をよく知っている、っていったのよ、最初」
 戻ってきたウーが話してくれました。野球部の手伝いで、草野球のレフトを守ったことがありました。大松さんも応援に来ていましたから、そのときのことでしょう。三本間にはさまれた相手のランナーを刺すためにキャッチャーがサードに投げた球がそれました。ぼくは、サードのすぐ後ろでその球をカヴァーして、おもいっきりバックホームしました。
「ああいうとき、ちゃんとカヴァーできる男は、野球を知っている男だ、って。それから、せっかく部長と課長がお見舞いに来てるのに、ずーっとあなたの話ばかりするものだから、二人ともしらけちゃって、うんざりしたような素振りで顔見合わせていたわ。おかしかった」
 すぐに退院されるとばかりとおもっていた大松さんは、そのまま病院で亡くなられました。アルバイトのぼくは、とうとうお見舞いにも、告別式にも行けませんでした。そして、すぐに総務の関根さんに肩を叩かれたのでした。
 関根さんは、階段の途中で、ちょうどよかったというふうにすこし笑うと、せっかく降りてきた階段をまたぼくと昇って、じつは、と切り出しました。ぼくは、もう、察していましたから、関根さん、わかっていますからいいですよ、といいました。
 赤坂に会社の寮があって、ふだんは重役の会合や、麻雀などに使われる場所のようでしたが、そこで送別会を開いてくれました。フェリー部の全員と、総務の関根さん、ターミナルからも数人来てくれて、すき焼きパーティーが催されました。六本木の瀬里奈に義兄がいるというブーが、瀬里奈の牛肉を食べきれないほど調達してきてくれました。
「ちょっと罪滅ぼしね」
 ただ、ぼくの記憶では、そのすき焼きパーティーの席に大松さんもいらして、あの猫背のずんぐりした身体を揺らしながら、バリトンの声でなにかいっているのです。そんなはずはないのに、大松さんがぼくに、もうそれ以上齢をとってはいかんよ、と注意するのです。あのブリキの太鼓のオスカルのように、齢をとらないようにな。ぼくは、はい、わかりました、できるだけやってみます、と答えます。きみい、できるだけじゃあ駄目じゃないか。青年は、目標に向かって、しゃにむに突き進んでいくものだよ。目標を見失ってはいかんよ。齢をとることは、目標が薄れていくことだ。いいかい、だから齢をとってはいかんのだ。約束だぞ。そうして、すき焼きパーティーなのに、キャラメルの包み紙をむいて口に放りこむのです。
 ぼくは、大松さんとの約束を守りました。だから、ぼくは、いまだに27歳のままなのです。どんなに外貌が変わったとしても。
(つづく)