ネクタイ 16

「そりゃあ、おまえ、おれにもわかる気がするな」
 ロバの耳で待ち合せた甘木が、タバコを灰皿でもみ消しながら、いった。
「おまえにはわるいが、世間ではおまえみたいな仕事は会社員ていわないんだよ。そりゃあ、会社に勤務しているんだから、書類かなにかに書くときは会社員だろうけど、普通は店員て呼ばれるよ。それが、百貨店のように規模が大きいと、店員と呼ばれたってコンプレックスは感じなくてすむけれど、いっちゃなんだが、いくら銀座でも個人商店だろ。おれがおまえだって、きっと傷つくよ、昔を知ってる教師に会ったら。自分を物書きに規定したって、それとこれとはべつの話だとおもうよ」
「それだけじゃないんだ」
 ぼくは、いった。
 高橋雄さんが帰って行ったあとで、ぼくはウインドウのなかのネクタイを飾り替えていた。7本のバランスを考えて並べてあるので、売れた1本を追加してやるだけではすまない場合がある。そんなときは、全部引き上げて、もう1度そっくり並べ替えなければならない。
 ようやく飾り終わってホッとしたときだった。なにげなく通りを見ると、ウインドウを眺めている5、6人の一団がいた。ネクタイを指さしてなにやら笑い合っているが、こういう場合は、たいてい、こんな高いネクタイあるのかよ、とか、だれがするんだろう、と言い合っているのである。
 そのひとりと、眼が合った。商船三井の営業部の女性だった。あっ、とおもってよくみると、なんとそこにいたのは、数ヶ月前までいっしょに仕事をしていた仲間たちだった。 営業部の女性が、フェリー部のノッポにささやきかけた。このノッポと席を並べていたのだった。
 ノッポは、まじめな顔にもどって眼鏡を掛け直すと、ウインドウのガラス越しにじっとぼくを見た。ぼくは、かくれんぼで鬼に見つかったときのように、不承ぶしょうガラスのドアをあけて表に出て行った。
「ユーは、ここに勤めたのか?」
 ノッポがきいた。
「そう。まだ入ったばかりだけど」
「きれいな仕事でよかったじゃないか」
「まあね」
 総務部の男性がノッポの肘をつついた。ノッポはふり返って、つついた相手の目を見ると、うなずいてまたぼくを見た。
「それじゃ、おれたち、行かなくっちゃ。ユーも、元気でがんばってよ」
「ありがとう。じゃあ」
 横から、総務部の男性がいった。
「出世したら、ネクタイ買いにくるよ」
 一団は、まちまちにぼくに手をふって去って行った。数ヶ月前なら、ぼくもあのなかにいて、懇親会と称してビアガーデンに行ったりしていたのだ。
 店にもどると、砂糖部長がニコニコしてぼくを見た。
「知合い?」
「はい、以前アルバイトをしていたときの同僚たちです。もっとも、みんな正社員ですけど」
「それで、どうしたんだ?」
 甘木がきいた。
「どうしもしないけど、みんなを見たとき、ああ、消えてしまいたい、とおもったんだ」
「よくわからないけど、やっぱりコンプレックスなんじゃないか」
「コンプレックス、か」
「おまえは、なんでも1番になりたがるやつだからな。おれを見ろよ。大学補欠で入学したって、このとおり、ちゃんと卒業して普通に就職できてるんだぜ。毎日図面引いて、どっかにスチール棚を納める営業の助っ人やってるんだ。生涯、設計部で線引いて終ってもいいよ。そのかわり、週末は自由にさせてもらう。スキューバ・ダイビング。おもしろいぜ。おまえもやらないか。
 おれは知ってるよ。おまえは、じつは、そうやってコンプレックスを育ててるんだ。おまえは、危険な穴ににじり寄って行くようなやつだ。ほんとは逃げたいのに、プライドだけで踏ん張って、踏ん張るだけじゃなくてのぞき込むようなやつだ。
 おれは、おまえに才能があるのかどうか、わからない。案外、ないんじゃないかとおもう。なければいいとおもう。もっとも、もう半分人生をずっこけちゃってるから、どっちでも同じことかな」