ネクタイ

 その人の名前は、仮に陸軍としておこう。終戦まであった陸軍士官学校の出身者だったからである。
 陸軍氏は、ある日、ふらりと入ってこられた。そして、入り口のところに立っていた古村さんに、
「ネクタイを選んでください」
 と、声をかけた。
 見ると、手に洋服のケースをさげている。どこかでスーツを仕立てて、それを取ってきた帰りなのだろう。
 古村さんは、ネクタイのケースが並んだなかから、アクアスキュータムのネクタイを取り出した。それは、芯地がぽってりとして、生地も市松模様の大きな折り柄で、なんだか座布団のようなネクタイだった。渋い色で5色あったが、いつ入荷したのか、1本も売れないまま、ずいぶん年季が入っていた。
 陸軍氏は、鏡に向かって、ネクタイを自分の胸に当ててみた。
「うん。これがいい。これにしましょう」
 昔の俳優の佐々木孝丸さんに似た顔を崩して、ネクタイを古村さんに手渡した。
 昭和50年代のはじめだから、終戦のとき20歳としても、優に50は越えている。しかし、幅広い肩と厚い胸に、上背もあって姿勢がよいので、とても50歳には見えなかった。
「スーツを作っても、すぐには着ないんですよ。体つきのよく似た友人がいて、その男に2カ月ばかり着てもらうんです。そうすると、すこしくたくたになって、体になじんで着やすくなるんです。新品をそのまま着るのは、気恥ずかしくて、とても駄目です」
 陸軍氏は、青年のように苦笑した。
 翌月も、新しい洋服をぶらさげて、陸軍氏はやってきた。そして、古村さんを目で探すと、
「また、ネクタイ、選んでください」
 と声をかけた。
 何本かネクタイを見せたあと、あのアクアスキュータムのネクタイが登場した。陸軍氏は、鏡に映る自分の顔を見て、オールバックの髪をなでつけてから、前と同じようにネクタイを当ててみた。
「これがいちばん似合っているかな」
 たしかに、陸軍氏がアクアスキュータムのネクタイをすると、それ以外は考えられないくらいによく似合った。
「ぼくは、戦争が終わってから、もう1度大学に入り直したんですよ。士官学校の資格では、なかなか就職に有利というわけにはいきませんでしたからねえ」
 陸軍氏は、ぼくに向かって昔話をしていたが、どうやら古村さんにきかせているようにみえた。
「それで、婚期を逸しましてね。それからずっと独身できてしまいました」
 1カ月がたって、陸軍氏は、また新しい洋服を持ってきた。銀座で毎月1着スーツをオーダーするというのは、なかなか大変なことだが、どこかの会社の重役なら別に痛くもないだろう。今度も古村さんがお相手をして、あろうことかアクアスキュータムのネクタイが決まった。
「縁談はいろいろあったんですが、姉が3人いましてね、これがどれもこれも口うるさくて、こんなんなら結婚なんかしないほうがいいや、とおもいました」
 陸軍氏の素性、というか輪郭は、こんなふうにして1カ月ごとにはっきりとしてきた。そして、4本目も例のアクアスキュータムを選んだ。
「姉たちが片付いたあと、ぼくが母と暮らしていましたから、よけい縁遠くなりましてね。しかし、半年前に一人になってみると、どうにも空虚で。茶飲み友だちのような伴侶でもいれば、ちょっとは気も紛れるんですが」
 その日の帰りに、入り口まで見送った古村さんをふり返ると、陸軍氏は顔を赤らめながら、もごもごとなにかいったようだった。
「陸軍さんは、なんだって?」
 釜本次長が、興味津々で古村さんにきいた。
「よかったら、食事ごいっしょしませんかって」
「へえっ、それで、行くの?」
「わからないわ。案外素敵だし、あの方」
 ふだん喧嘩仇の釜本次長は、なにか冷やかそうとしたが、なんとなくしらけてやめた。
 5本目のアクアスキュータムが売れたのは、もちろん陸軍氏で、翌月のことだった。10年経っても片付かないとおもわれていたアクアスキュータムの座布団は、驚いたことに完売してしまった。
 その日、古村さんは、陸軍氏の食事の申し出を快く受け入れた。
「で、どうだったの?」
 翌日、待ちきれないといった口調で、釜本次長が古村さんにたずねた。
「お食事はおいしかったわよ。フランス料理。ワインもおいしかった」
 その割には、古村さんは浮かない表情だった。
「お母様がなくなったんですって、半年前。それで、よかったら母の形見の指輪をしてくださいっていわれたの。結婚を前提におつき合いしましょうって」
「それで?」
「それでって、お断りしたわよ。だって、なにが一人になってみるとよ。母は片付きましたが未亡人の姉がいるっていうのよ。それも3人揃って!」