ネクタイ 4

 吉行淳之介先生は、新しいネクタイをしてバーかキャバレーに寄ったとき、あら、素敵なネクタイねえ、とホステスに褒められると、すぐにそのネクタイを外してしまう、といった。それはホステスに対して意地悪でするのではなくて、ネクタイが目立ってしまっては困る、といった気持からだという。
 吉行先生は、なるべく目立たないのがいいおしゃれだとおもっていたようだ。しかし、凄みのある白皙の二枚目が、黒の背広に黒のシャツを着ていて目立たないわけがなく、そっちのほうはどうしてくれるのか、とききたい気もする。しかも、ノーネクタイで(黒のシャツでネクタイをするほうが恐いかな)、どう見てもヤクザのコスチュームである。
 この黒シャツをやめて、ベージュのシャツに替えたときのことを、以前書いたことがあった(2004-11-14「吉行さんの黒いシャツ」)。その前後に、吉行先生は、1本だけネクタイ買われている。
「ネクタイなんか買ったって、めったにすることなんかないんだけど」
 といって、吉行先生はそのネクタイを手に取った。
「ないと困ることもあるんです」
 そして、壁の鏡の前に立つと、ネクタイを胸に持っていこうとして、ふと手を止めてぼくの顔を見ると、ニヤッとした。視線でも感じたのかもしれない。
「馬子にも衣装、か。客がこうして鏡の前でネクタイを当てているのを見ると、そうおもったりしませんか」
「は? いや、べつに」
 ぼくは、咄嗟のことで、真っ赤になってしどろもどろに返事をした。
「冗談ですよ。真剣に答えなくてもいい。これ、貰っておきましょう」
 そのネクタイをしている写真が載っている本が、さっきから探しているのに見つからない。探しているときは、必ず見つからない。なんでもそうだ。
 そのネクタイは、ランヴァンのスペシャルタイで、シルクサテンの黒の地に、結び目の下あたりに出るように柄があった。その柄は、斜めに入った1本のストライプで、平らな生地なのにその部分だけが織りの加減で盛り上がって見えた。レインボーカラーのストライプだった。