ネクタイ 5

 昭和50年代のはじめ、まだブランド品は高嶺の花だった。ブランド品よりもなによりも、舶来品と呼ばれた輸入品を買うこと自体、一般のサラリーマンには思いもよらないことだった。
 その輸入品がなんとなく身近に感じられるようになってきたのには、景気の上昇はもちろんだが、講談社から創刊された「世界の一流品大図鑑」(昭和51年Vol.1発行)の影響がずいぶん大きかったようにおもう。これですこしずつ一般に浸透していったのではなかったか。
 同じ時期に創刊した「ポパイ」や、ちょっとあとから出てきた「ブルータス」は、ぼくのバイブルだった。それまで、スニーカーなんていう言い方はしていなかった。ズック、である。それも月星靴とかアサヒ靴(「地力」なんていう作業靴みたいな名前のズックをはいている友だちがいた)。それが、とつぜん、コンバースとかケッズとか、トップサイダーという名前が写真といっしょに目に飛び込んできたのである。
 ぼくは、もう、20代の後半にさしかかっていて、周囲の友人たちのなかにはぽつぽつ結婚する者も現れたりして、ほんとはもっとしっかりしなくちゃいけない時期のはずなのだけれど、「存在の耐えられない軽さ」というか、なんとなくそっちのほうへ流されていった(これは、茶碗やお道具に凝るというのと同じことだとおもう。茶碗やお道具だと高尚におもわれて、スニーカーやグッズにはまるとフーチャカして見られるのは、これは偏見である)。
「ポパイ」に、その頃はまだ日本に入ってきていなかったアイビーの総本山、ブルックス・ブラザーズの紹介記事が載った。ぼくはもう、フジヤ・マツムラに腰掛けのつもりで入社していたから、創刊3年目くらいのことである。その記事の端に、都立大のそばに平行輸入をしている店がある、と書いてあった。都立大駅はいつも通っているから、給料日の翌日、途中下車して行ってみることにした。
 住宅街の一角にその店はあった。「レイン・クロージング」。なんと訳すのだろう。雨天閉店じゃないだろうな。レイン洋品店か。そんなことを考えながらドアをあけた。
 狭い店で、品揃えなんてものではなかった。そりゃあ、個人が身銭を切って向こうから仕入れるのだから、十分に揃えられるはずがない。大きな靴が1足だけ置いてあって、希望のサイズを取り寄せます、と書かれていた。ネクタイなんか、10本ほどしかない。ほかに小物やらバッグやらが、ポツンポツンと並んでいる。しかし、どうだ見ろ、おれはこれが扱いたいんだ、という心意気のようなものが感じられて、スカスカの商品が威張って見えた(「さすが、アメリカ直輸入」)。
 当時、ぼくは、貰った給料はその月で使い果たすのをモットーとしていたから、次の給料日にはスッテンテンの状態だった。ネクタイを裏返して値札を見ると、これが高い。店で扱っているエルメス(その頃は、9800円)よりずっと高い。全部買い占めたいが、それではあと1ヶ月、スッテンテンで、飲まず食わずでいなければならない。スッテンテンになるのは構わないが、それは1ヶ月かけてそうなるので、1夜にしてスッテンテンは困る。
 ぼくは、ざっと見て、3本選んだ。いつまでも眺めていると、なにがなんだかわからなくなってしまう。黒地に紺とエンジとアイボリーの縞が順に並んだのと、紺地に黄色の縞と、黒地でアイボリーの縞のなかに赤の縞が1本走ったやつである(ぼくは、その頃、ストライプのネクタイしかしなかった)。これで給料の34パーセントがめでたく消失したことになる。
 翌日、早速、白のボタンダウンに紺とエンジとアイボリーの縞を締めて出社した。Gテーラーをやめて自分で神田でテーラーをはじめたA氏が、顧客のスーツに合うネクタイを探しにやってきて、ぼくのネクタイに気づき、いいネクタイは店に出す前に自分たちで取っちゃうんじゃないのか、と嫌みをいった。これは違いますよ、といっても信じない。その日みえた何人かの方に、いいネクタイしてるね、と褒められた。給料の34パーセントを使った甲斐があるというものだ。
 一枚の繪の竹田厳道氏が、「高いネクタイは、けっして高くない」とおっしゃったことがある。
「だれか一人が褒めてくれたら、きみ、元を取ったようなものだよ。それだけ印象に残るわけだから」
 その日、ぼくは、ホクホクして帰宅した。あれだけ褒められれば元は取ったに違いない。そして、ネクタイを外してみて驚いた。エンジが色落ちして、白いボタンダウンの首の部分が赤く染まっていたからである。イタリー製でたまに色落ちする製品があって、イタリア製だから仕方ないか、と信用がない時代だった。ブルックスのネクタイが色落ちするなんて。
ブルックス、おまえもか」