ネクタイ 9

 T汽船のT社長が、時の総理大臣について口をひらいた。
 もともと、T社長は、口がわるい(というか、口に毒がある)。
 T社長がなにかの試着をしたとき、脱ごうとする上着をうしろで受け取ろうとしたら、突然怒鳴られた。
「触るな!」
 おもわず、剣幕に驚いて、出した手がすくんでしまった。
「男は触るな、けがらわしい」
 あわててだれか女性が上着を受け取って、ハンガーにかけた。
 以来、君子危うきに近寄らず。なにがあってもそばに寄らないことにした。
 T社長は、行きつけのバーで「乾燥猿」と呼ばれていた。もちろん、本人のいないところでである。バーの経営者一家も顧客だから、用事でうかがうと、いろんなことを教えてくれた。
「あの乾燥猿、ほんとうはアルコールが駄目なの」
「それじゃあ、なんでこちらにみえるんですか?」
「コーヒー飲みに。あんた、いっちゃあ駄目よ」
 荻馬場さんとぼくしかいないとき、T社長が来店された。
「なんだ、二人だけか。あとの人はどうしました? あのハゲとデブは」(ハゲは鎌崎店長、デブは釜本次長のこと)
 荻馬場さんがすすめたセーターの試着をはじめたところで、荻馬場さんに電話が入った。T社長はピッタリしたものが好きだから、セーターもぴったりめで、もがきながらようやく袖と頭が通ったが、身頃が胸のあたりで丸まって、下におりてこない。
「ほら、見てないで、早く裾を引っ張りなさい!」
「でも、T様。男が触っちゃいけないんでしょ?」
 T社長は、一瞬、言葉に詰まった。
「うう。引っ張るのはいいんだ!」
 で、総理についてだった。
 「水玉がいくら好きだって、陛下の前に出るのに水玉のネクタイをするなんて、どうかしてるな、あの男」
 そういうご本人は、どんなときでも、ストライプのネクタイしかしなかった。