ネクタイ 13

久野新吾(仮名)氏は、ガラガラのだみ声で、しかも大音声といった按配だったから、とても内緒話なんかできる方でなかった。板橋の金属会社のこの社長は、気取ってたって、おまえ、しょうがあんめい(仕方があるまい)、といった気っぷに満ちあふれていた。
「暑い暑い、こう暑いと、おまえ、上着だけじゃなくて、みんな脱いで、ステテコで歩きたいよ」
 ドアをあけて熱風とともに来店された久野氏は、ハンカチで大いに後退した額をゴシゴシ拭いながら、ふう、と大きなため息をつくと、浅く椅子に腰掛けられた。
「おまえは、いつも人の顔を見ると、ネクタイ、ネクタイって騒ぐけど、夏はこれで間に合うんだよ」
 見ると、黒い蝶ネクタイを締めていた。
「おまえ、これな、ネクタイじゃないんだよ」
 失礼して、触らせていただいた。編んだナイロンの、幅広の紐のようなものだった。
「これ、ニットのテープなんだな、輪になってて。幅がちょうどいいだろ。もともとなにに使うのか知らないけど、行きつけの洋服屋に置いてあるんだよ。社長さん、だまされたとおもって使ってみてくださいっていうから、試してみたんだ。そうしたら、これが具合いいの。夏は汗かくし、これ化繊だろ、汗かいてもシルクみたいに惜しげないじゃないか。このテープが丸めて置いてあって、適当な寸法だけ切ってくれるんだ。鋏でチョキンと切るだけだよ。切り口ほつれないの。それで、おまえ、これで300円だよ。色も黒だから、利口そうに見えるしな。だれも、紐巻いてるとはおもわないだろ。夏はこれに限るよ」