ハンドバッグ 8

  電通のT氏(2008-05-11「ネクタイ 6」参照)は、スタスタと店のなかに入ってくると、店内をぐるりと見まわした。そして、入荷したばかりのヌメ革のバッグに目をとめた。そのバッグは、手提げの旅行鞄で、鞄屋の伊藤さんが、試作品です、といって2個持ちこんできたうちの1個だった。
 伊藤さんというのは、まあ、ブローカーみたいな人で、かかえている職人にバッグをつくらせては売りこみにきた。メインはゴート(山羊皮)のバッグで、丈夫で軽く、デザインがシンプルだったので、昔の顧客はたいてい1個は持っていた。書類鞄から旅行鞄まで、いくつかの大きさがあった。山口瞳先生も、書類鞄とボストンバッグはお持ちだったはずである。砂糖部長も社員割引で購入して、毎日通勤に持ち歩いていた。弁当箱を入れて。
 伊藤さんがヌメ革のバッグをつくったのは、きっと安く皮が手に入ったからにちがいない。このとき見たのがはじめてだし、その後は2度と持ってこなかったから。
 T氏は、揉み手をして愛想笑いを浮かべる鎌崎店長に、ちょっとあれ、見せてもらえますか、と声をかけた。ヌメ革の鞄は、ガラスケースの上の高いところに飾ってあったから、脚立を持ってきて下ろした(この脚立は、鎌倉の会長が指物師にこしらえさせたもので、土足で上がるのが恐れ多いような逸品だった)。
「これは、すごい。こんな鞄、はじめて見たな」
 T氏は、大きく目をむいて見せた。
「これ、ぼくのイニシャル入れられるかなあ? この表側の上のところに、金で」
「イニシャルねえ。さあ、どうでしょう。調べてみませんと、なんとも」
 揉み手をしながら、鎌崎店長がT氏の表情をうかがった。
「なにかひとつ、自分にいいものをプレゼントしたい気分なんです。久しぶりに東京に戻ってこられたので」
 T氏は、人事のオーソリティーで、海外の支社をいくつも転勤してきたようだった。
「イニシャルが入れば、これ、買います」
 日比谷のビルにあったアメリカンファーマシーで、イニシャルが入った。イニシャルを入れるのは内側の間違いじゃないですか、ときかれたらしい(普通は、内側だからね)。
 なんだか金文字がズレているようにおもえたが、T氏は大喜びで持ち帰った。
 しばらくして、T氏が顔を見せた。
「あの鞄を持ってまたお出かけですか?」
 鎌崎店長が、愛想笑いを浮かべながら、きいた。
「それがね。ぼくは長いあいだ海外赴任していたものだから、つい旅行鞄なんか買ってしまったけれど」
 T氏は言葉を切って、まっすぐ店長を見た。
「もう必要なかったんです。あんな大きな鞄」
 店長が困った顔をして、あたりを見まわした。目が泳いでいた。
「いや、ご心配なく。ぼくは、無用の物というものを、はじめて買った気がします。これまで、考えてみると、なんでも必要なものしか買ったことがありませんでした。ぼくは、合理主義者です。しかし、要るはずのないものが、こんなに気持をうるおすとはおもってもみませんでした。ぼくは、いま、海外赴任する社員の教育係をやっていますが、あの鞄のおかげで、ちょっと考え方を変えてみようかとおもっているところです」