ハンドバッグ 17

 警察署に着いたものの、二人はイタリア語が話せなかったから、日本語がわかる人が来るまで待たなくてはならなかった。それで、待合室に腰をおろして、だれかが呼びにくるのを待っていた。
 しばらくすると、入り口のあたりが騒がしくなって、どかどかと人がなだれ込んできた。数人の警察官に囲まれて、日本人らしい男性が一人連れてこられた。やはり、旅行客のように見えた。
 男性は、流暢なイタリア語で、警察官にさかんにまくしたてていた。それに答える警察官も、機関銃のような速さで聞き返していた。どうやらこの男性も、災難に遭遇したらしかった。ひとしきり警察官と言葉の応酬をしたあと、ふっと黙り込んで、自分の手を眺めた。血がしたたっていたからである。血はズボンを伝わって靴のなかまで濡らしていた。ルリ子様は、すうっと気が遠くなった。貧血を起こしたためである。
 あとで男性に聞くと、通りを歩いていたら肩から掛けたカメラを引っ張られたそうである。泥棒とおもったので、あわててカメラのひもをつかんだ。相手は、また強引に引っ張った。しかし、小柄なイタリア人だったから、抵抗する男性からすんなりカメラを奪うことはできなかった。
 すると相手は、腰のポケットから素早く小型ナイフを取り出すと、やにわに男性の腕に斬りつけたのである。一瞬、男性はひるんだ。その隙に、イタリア人はもう一度踏み込んで、ナイフを横にはらった。ナイフの刃は、男性の頬をかすめながら、空気を切り裂いていった。とたんに、恐怖心がわき起こった。その様子を見て、イタリア人がまた、カメラのひもを引っ張った。もう男性には、抵抗する気力はなかった。
 この男性といっしょに被害手続きをすませた。指輪の金額を申告すると、被害届を記入していた警察官の手が止まって、まじまじとルリ子様の顔を見直した。警察官は小刻みにうなずいていた。
「気の毒だが99パーセント、盗まれたものは出てこないだろう。なにしろここはイタリアだからね」
 警察官は、まるで自慢するような口調でいった。それを男性が通訳すると、ルリ子様ははじめて涙がこみあげてきた。
 ついでにこの男性に日本大使館に連絡をとってもらった。パスポートが再発行されるまで数日かかるといわれた。ホテルを動けなくなった。もう旅行もおしまいだった。せいぜい、ホテルの近くでおいしいものを食べようとおもった。
 あれほど世話になったのに、男性の連絡先を聞くのを忘れていた。落ちついてからよくよく考えると、無理に抵抗しないで、転んだだけですんでよかったとおもった。もしナイフで致命傷でも負っていたら、とおもうと、ぞっとした。
 もうひとつ、高価な指輪を失ったのはもちろんショックだったが、いっしょに盗られた焦茶色のポシェットを惜しいとおもったのは、自分でも意外だった(「軽くて、やわらかくて、外国でなら着物でかけても違和感がなくて、また出かけるとき重宝しそうだったのに」)。
 指輪は、結局、同じデザインでもう一度こしらえることにした。お嬢様には内緒で、5個。しかし、ポシェットは、もう、手に入らなかった。イヴ・ド・フランドルという名前だった。