ハンドバッグ 27

 岸谷先生のお宅では、立て続けにご両親がなくなられた。母上は長く臥せった末に、父上は入退院をくり返して短時日のうちに、この世を去られた。その後すぐ、お嬢様が離婚された。性格の不一致が原因、と岸谷先生はいわれた(「やっこさん、虚脱状態になって、ずっと家に引きこもっているよ」)。そして、それから間もなく、こんどは 岸谷先生ご自身がアキレス腱を断裂して、しばらく銀座から遠ざかることになった。歴史に記すべき事柄がない、いわゆる平和で幸福な10年は、こうしてあっけなく終ってしまった。
 毎週のように来店されていた方が、ぷっつりと来なくなるというのは、特別にさびしいことである。ぼくらは、木曜日になると、そうすると本当に来店されるような気がして、しきりに岸谷先生の噂話をした。それは、よその店でも同じらしく、道ですれ違うたびにエスコフィエのオーナーに、「岸谷様はお見えになりますか」ときかれた。
 岸谷先生がアキレス腱を切ったのは、スポーツジムで走っていたときだった。にぶい音がして、足がいうことをきかなくなった。とつぜん、弱り目に祟り目ということわざが頭をよぎった、と先生はあとになって笑っていわれた。
「ところがね、笑っていられないのは、娘が病気になっちゃってね。ぼくの足が、わるいことの総仕上げだとかえって喜んでいたんだけど、まだ終っていなかったんだなあ」
 お嬢様の病気は、膠原病ということだった。原因不明で、治療法も確立されていない難病だ、と先生は真面目な顔でいわれた。
「やっこさん、両手に力が入らないので、ハンドバッグも持つことができないの。だから、なにか軽いバッグで、肩からかけるやつ、見繕ってくれないかなあ」
 やがて、お嬢様は、先生と並んで患者を治療するまでに回復された。体型も昔のずんぐりむっくりに戻った。結婚はもうこりごり、といっているよ、と先生は茶化すような口調でいわれた。お芝居をみて、銀ブラを楽しんで、行きつけの店で食事をするあの木曜日がかえってくれば、きっと平凡で穏やかな日々がよみがえるに違いない、とぼくはおもった。
 ところで、「肩からかける軽いバッグ」がどこのメーカーでどんな形をしていたか、まるきり思い出せない。きっと平凡で穏やかな形をしていたのだろう。