コート 2

 裏にミンクの毛皮を張ったアクアスキュータムの紳士コートは、2着入荷していた。
 1着は、平貝印刷の平貝社長(あのアンコロモチ氏)が結局、買われた。寒い国でとても重宝した、とあとで奥様から聞かされた。そして、もう1着には、ちょっと問題があった。毛皮の裾のほうに、しらみの卵がくっついていたのである。
 しらみの卵は、餡パンの表面についている芥子の実くらいの大きさだった。白くて、毛にぴったりくっついていて、爪でしごいてみても取れなかった。数本の毛に10数個点在していた。よくよく注意して見ないと気がつかないが、茶色い毛に白いツブツブだから、わからないはずがない。何軒もクリーニング屋にきいてまわったが、刈り取るほか仕方がないといわれた。ただし、もう卵はとっくに孵っており、くっついているのは殻だということだった。
 ところで、この卵がいつ付いたかで、扱いが変わってくる。仕入れしたとき、すでに付いていたのなら、問屋に返すことができる。仕入れたあとでしらみがたかって、卵をうんで、それが孵化したものならこちらの責任で、もちろん、返品することはできない。しかし、こちらで孵化すれば、もっと繁殖して、成虫も見つかるはずだから、殻だけ残っているくらいではすまないだろう。それなら、やはり、はじめからくっついてきたのか。
 話がややこしくなりそうだったが、このコートが仕入れられたのは、昨年のことである。昨年、仕入れてすぐに気がつけば、返品できたのである。いや、昨年のうちなら、おそくなっても返品できたのである。売れ残って、年を越したのが弱点であった。あとは、そこの毛を根元から刈ってしまうのがいちばんだが、そうするとそこの部分だけが微妙に疎らになってしまう。それも困る。困って、困ったまま、倉庫の一番奥に突っ込んであった。
 日本舞踊の家元、井戸水冷右衛門氏(仮名)がみえたのは、平貝氏がコートを購入されたすぐあとのことである。偶然とはおもうが、商売をしていると、よくこういうことが起こる。ずっと日の目を見なかった商品が、あれよあれよという間に売り切れてしまう。
 ドアがあいて、井戸水先生がそこに立っていた。井戸水先生の上着とコートは、女形の着物のように衣紋が抜けていた。
「よろしいかしら」
 井戸水先生は、しなしなと店の奥まで進んできた。
(つづく)