コート 5

  ぼくは、おもわず、へー、とおもった。それも3回、別の日にである。
 まず最初は、山口瞳先生だった。脱がれたコートをハンガーに掛けようとしたら、衿の内側に付いているメーカーの織りネームが眼に入った。「アクアスキュータム」。イギリスのメーカーで、バーバリーと双璧である。しかし、そのときは、山口先生のコートのものすごくソフトな綿の感触に驚いて、あまり知られていないブランドの隠れた実力に、まいりました、と最敬礼したい気持だった。コートの色は、赤みがかった茶色だった。
 2回目は、丸谷才一先生のコートをお預かりしたときである。丸谷先生もアクアスキュータムで、ちょっと濃いベージュだった。感触は、山口先生の生地よりももっとソフトだった。おもわず、へー、とおもった。
 フジヤ・マツムラでは、お客様がコートを着て来店されると、すぐにコートをお預かりしてハンガーに掛けた(顧客の場合ですよ。一見の方まで脱がしたら、それは問題でしょう)。コートは脱いだほうが楽だし、それでゆっくりくつろいでいただければ、おのずとお買い物につながるからだ。お客様のほうも、ここの店では脱ぐと怖いことになるから脱がない、と冗談にいったりした。
 3番目は、吉行淳之介先生の場合だった(註、2004-11-03「吉行さんとコート」参照)。吉行先生もアクアスキュータムのコートで、色は黒。生地に触れると、シャリシャリというかキシキシした。あれ、変だな、とおもったら、吉行先生のはシルクの生地だった。おもわず、へー、とおもった。
(註、アクアスキュータムをぼくが知らなかっただけで、フジヤ・マツムラではずっと昔から扱っていたのでした)