ブルゾン

 白いふさふさのぬいぐるみとおもったのは、猫だった。目のパッチリとした白いペルシャ猫が、4、5匹いた。いったん猫とわかってみると、もうぬいぐるみには見えなかった。猫は、ひとの顔を見て、またミャアと鳴いた。きっと、うさんくさいやつだとおもったにちがいない。
 後日、この猫のうちのどれかが、飼い主のブルゾンにおしっこをひっかけた。それもタップリと。たぶん、ソファに脱ぎ捨てられたブルゾンが、うんと酒くさかったか、タバコくさかったからにちがいない。
 黒眼鏡の作家は、浮かない顔でブルゾンを持参した。
「これ、猫がおしっこしたんですけど。クリーニングできませんか」
 作家は、憮然とした面持ちでいった。クリーム色の革のブルゾンの胸のあたりに、掌くらいのシミが黒くひろがっていた。めずらしく困惑した作家の表情を見ると、おもわず顔がほころびそうになったが、とにかくお預かりすることにした。お預かりしてから、これは困ったことになった、とおもった。ブルゾンは、やわらかいラムスキンで、イタリー製だった。上等な品物だから、クリーニングも半端なところには出せない。シミが消えても、革の風合いが変わってしまったら、なにもならない。それでなくても、革はむずかしいのだから。
 名前と場所だけはきいたことのある、高級クリーニング店をたずねたのは、そのときがはじめてだった。西麻布の霞町交叉点から、渋谷方向に坂を上りかけた途中の路地を、左に入ったところにその店はあった。大理石のカウンターの向こうに、クリーニング店の受付けとはとてもおもえない女性が二人、満面の笑みをたたえて迎えてくれた。ぼくは、シャンパンでも出てくるのじゃないかとおもった。
「この革のブルゾンですけど、猫がおしっこかけたらしいんですが、シミがとれるでしょうか」
 女性たちは、顔を見合わせると、うれしそうに笑った。
「ただいま、アトリエのほうできいてまいりますので、しばらくお待ちください」
 女性は、二人してアトリエにききに行った。ぼくは、ひとり取り残された(こういう場合、お愛想なんかいわなくてもいいから、どちらかひとり、残って店にいてほしい、とおもいませんか)。
 しばらくして、二人は戻ってきた。
「お待たせいたしました。ただいまきいてまいりましたが、このシミは取れないそうでございます」
 それだけきくのに、こんなに待たせたわけか。
「しかし、染めることはできるそうです」
「染めたら、この色になるんですか」
「ええ。ただし、風合いが少々変わってしまうようですが」
「それは、どんなふうにですか」
「染めると申しましても、表面をコーティングする方法しかないそうで、コーティングすれば多少ツルツルゴワゴワするそうでございます」
 それでは、少々とはいえなそうな気がする。
「あの、ゴム引きのコートがあるでしょ、イギリスのメーカーなんかに。あんな具合でしょうか」
「さあ、たぶん、そうだとおもいます」
 ゴム引きのコートなんか見たことがないような口調だった。
「ひとから頼まれてきたので、それでいいかどうか、もう1度きいてきますが、いかほどですか、染めると」
 あ、という顔をして、ちょっときいてまいります、といってアトリエへ行った。二人して。
 また、見積もりだけでこんなに、というくらい待っていると、ようやく二人が戻ってきた。
「6万円かかります」
 それでも染めますか、というニュアンスが言葉に感じられた(20年近く前のことですからね)。
 ぼくは、それじゃあ、といってブルゾンを受け取ると、店を出た。黒眼鏡の作家になんて説明しようか、と考えながら(「ブルゾンのシミ抜きの件ですが、ゴム引きのコートはお好きですか?」)。