コート 8

 綿貫君は、エルメスが好きだった。それで、丸の内のエルメスで白のコートを購入した。綿貫君の給料ではもちろん足りなくて、お袋さんに借金をしてそれを買った。
 彼の母上は小学校の先生だけれど、財産家の未亡人でもあったから、打ち出の小槌みたいなものだった。母上にした借金のほとんどは、踏み倒してしまったらしい。
「母は、忘れっぽいんです。ぼくには好都合です。でも、ときどき、こっちがすっかり忘れてるときに、あれ返しなさいっていわれて、びっくりすることがありますよ」
「お店にアクアスキュータムのコートがあるんだから、それにすればいいのに」
 店で販売している商品は、社員割引があったから、定価の2割引くらいで買うことができたのだ。
 綿貫君は、ぼくの顔を見て、ニヤリとした。
「エレガントじゃないなあ、そんな発言しちゃって」
 しかし、綿貫君のエルメスのコートは、若干袖が長かった。フランス人に合わせた造りなのだから無理もない。袖口で詰めればよさそうだが、あいにく袖口に近いところにベルトが付いていて、それをずらすと縫いあとが見えるらしかった。
「ほら、ワイシャツの袖が長いと、二の腕のところにガーターみたいなのするじゃない。あれをしたらいいんじゃないか」
 もちろん、からかっていったのである。
「それって、いいアイデアですね」
 綿貫君は、真顔でいった。
 その日の昼休み、総務の女性がなにかお針をしていた。
「なに縫ってるの」
 総務の女性が顔をあげて、縫いかけたものを見せてくれた。裏返したコートの袖だった。
「綿貫さんが、袖が長いから詰めてくれって、裏地を袖上げみたいに縫い付けてほしいって」
 袖上げというのは、大きめに作った子どもの浴衣の袖を、二の腕のあたりで生地をつまんで縫い付けておくことをいう。子どもが成長したら、そこをほどいて、長さを調節する。着丈が長い場合は、腰のあたりで腰上げをしておく。
 綿貫君は、裏地を袖上げしてもらってちょうどよくなったエルメスを、うれしそうに着ていた。
 ぼくは、その一言を、いおうかいうまいか、ちょっと迷ってやめた。
「まったく、エレガントじゃないなあ。お子様みたいな袖上げしちゃって」