コート 9

 「ちょっと時間があったものですから、寄ってみました」
 遠山一行氏は、ロータリークラブの集まりかなにかで銀座に来られると、必ず顔を見せられた(ロタリー、だったとおもうけど)。そして、靴下とかハンカチとかネクタイとかいった、ちょっとした小物を買われるのだった。
 しかし、追い剥ぎの、もとい、追い着せ(山口瞳先生がおっしゃったのだったかな)のフジヤ・マツムラは、それだけでは心優しい遠山氏をかえさない。遠山氏は、あれよあれよという間に上着を脱がされ、あるときは替え上着を、あるときはカーディガンを、あるときはセーターをいつの間にか着せられてしまう。すると、着せられたご自分の姿をひとしきり鏡で眺めてから、温和だけれどいたずらっぽそうな眼で、悠揚迫らずおっしゃるのである。
「そうねえ。あってもいいかな、似合ってるようだし」
 遠山氏は、スリムで背が高く、手足も長かった。だから、舶来の上着でも裄詰めの必要がほとんどなかった。「それじゃあ、靴下といっしょに届けてください。靴下の高いお届け代になっちゃったな」
 AGNONA(アニオナ)という、カシミヤやアルパカ、モヘヤの物づくりに定評のあるブランドがイタリーにある。もともとは生地メーカーだったらしいが、地味だけれど上質なテイストの製品を作り出している。
 それは、そのアニオナのカシミヤのコートの衿に、ビーバーの毛皮を張ったタイプのものが紳士・婦人とも入荷した年のことだ。ビーバーの毛は、ビロードのように滑らかで、紳士物の衿に付けても嫌みがなかった。
「ちょっと時間があるので」
 遠山一行氏が、ドアをあけて入ってこられた。
 ちょうどその日は、何かの都合で古株の社員たちがだれもいなかった。
 ぼくは、遠山氏の顔を見たとき、あのアニオナのコートがお合いしそうそうだな、とすぐにおもった。それで、遠山氏が靴下を選びおえてから、ガラスケースをゆっくりあけると、ビーバーの衿のコートを取り出した。コートは、誂えたようにぴったりだった。遠山氏は、文字通りプロフェッサーに見えた。
「うーん、いいなあ、この手触り。この毛皮はなんですか。ビーバー。なるほど。毛皮なのに嫌らしくないですね。形もいいし、また、高いお届け代になっちゃうな」
 遠山氏は、例の温和ないたずらっぽそうな眼でいってから、ポツンとつけ加えられた。
「お年寄りがいないから、きょうは怖くないとおもったのに」