コート 12

  ぼくが日本橋高島屋2階特選にあったフジヤ・マツムラコーナーに応援で出向したとき、そのコーナーの一角にイタリーのブランド、ヘルノが居候していた。壁に作り付けになっているハンガーラックだけを使用していたが、イタリー製の高価なカシミヤのコートがずらりと並んでいた。ぼくの同僚の有金君が、フジヤ・マツムラをやめてヘルノに入るずっと前のことだ。
 ヘルノの責任者は、大きな眼鏡をかけた色白の青年で、ぼくはひそかにハイラム君と呼んでいた(ハイラム君という名前を知っているのは、おそらく相当古い年代の人たちですね)。ハイラム君はぼくよりずっと年下だったが、明るくて、ひょうきんで、しかもとても太っ腹な男の子だった。
 カシミヤのコートは、たしか50万円くらいした。紳士物なのに裏地にシルクの派手なスカーフが張ってあり、伊達というか粋というか、マフィアの親玉が着ていそうな気がした。また、スカーフは張ってないが、ダブルフェースの生地のコートで裏地が真っ赤なのがあった。これも、普通の人にはとても着られそうになかった。それではだれが着るのか、ときかれると、ちょっと答えに窮するけれど。
 電話を切ったハイラム君が、あーあ、と溜息をついた。
「どうしたの?」
 ぼくは、おもわずきいた。
「返品です、外商から電話で。芯地が不良で」
 数日して、外商部から商品が戻ってきた。
「ほら、見てください。ここのところ、芯地が飛び出しているでしょ」
 ぼくは、眼をこらした。なるほど、胸のあたりから、茶色い糸のようなものが出ていた。
「触ってみていいですよ」
 ハイラム君がいった。ぼくは、手を伸ばした。
「ハリハリするでしょ。馬の毛です」
「へー。コートの芯地って、馬の毛を使うの?」
「ええ。馬の毛を編んであるんです、糸のように。でも、張りがあるから、たまには、こうして外に飛び出てしまうこともあるんです」
「それじゃあ、飛び出した部分だけカットしてやればいいんだね」
「いや、駄目ですね。もう商品になりません」
「どうするの?」
「処分します、不良品ですから」
 そういってから、ハイラム君はぼくの顔を見た。
「ああ、そうだ。よかったら、買いませんか。普通に着るだけなら支障ありませんよ」
「だって、50万もするコート、下代だって買えないよ」(註、下代とは卸価格のこと。定価は上代
「千円でいいです、どうせ裁断しちゃうんだから。サイズがなかったので、ほかから取り寄せましたから、その運賃だけ出ればいいです」
 ハイラム君は、もう一度ぼくを見た。
 結局、ぼくはそのコートを買わなかった。ちょっとサイズが大きいから、といって断ったように記憶するが、本当は、ボクちゃんのような若い青年からタダのような金額でコートを譲り受けるのが、気恥ずかしかったのだ(ぼくは、あとになって、何度も後悔した)。
「いいですよ、どちらでも」
 ハイラム君は、サッパリした口調でいうと、鋏でコートの胸のあたりを切り裂いた。中から茶色い芯地が顔をのぞかせた。
「これが馬の毛の芯地です」
 そういうと、その紺のカシミヤのコートをまるめて袋に放りこんだ。