コート 13-3


 ぼくがご覧に入れようとおもっていたのは、イタリー製アニオナのコートだった。衿にビーバーの毛皮を張ったカシミヤ・コートは、本当に素晴らしかった。同じ形で紳士物もあったが、そちらのほうは先に売り切れてしまった(註、2009-4-12「コート 9」参照)。
 今回の外商では、ぜひこのコートをすすめようとおもい、店にあった婦人物3着を持ってきていた。在庫の半分である。ところが、持ち出し伝票をつけているとき、「そんなに持っていって売れるの? 売れないものでかさばるより、売れそうな商品にしといたほうがいいんじゃないの」と釜本次長に嫌みをいわれた。だから、どんなことをしても売り切って帰ろう、と強くおもってきた。
 しかし、どんなに強くおもっても、売れないときは売れない。この4日間、お会いできた顧客のだれもが、ええなあ、とおっしゃるだけで、1枚も決まらなかった。その方々をあてにしていたので、ぼくは内心、ちょっと焦りだしていた。「だからいわないことじゃない」といいそうな、釜本次長の横顔がしきりに眼に浮かんだ。
「どうぞ、お上がりなさい。台所だけど、ぜんぜんかまわないのよ。銀行の係でも、高島屋の外商さんでも、みんなここで用をすますの。そろそろ夕飯の仕度をしようかな、とおもっていたところで、散らかってるけど気取ってもしょうがないから」
 ぼくは、いわれるまま、大きな長方形のテーブルの端に腰を下ろした。桑名様のお宅に上がったのは、これがはじめてだった。
「ぜひ、わたしに見せたいものって、なに? わたしのお小遣いで買えるものでないと、だめよ」
 よろしければすぐご用意します、といって、ぼくはあわてて車にもどった。福岡君が、もう終っちゃったんですか、ときいた。
 7つある旅行鞄(布製で、腰の高さくらいの大きさだった)から、アニオナのコートの入っている鞄をいそいで見つけ出して、それだけ持ってお家にもどった。
「おっきな鞄やねえ。こんなん、いくつ持ってきてはるの? 7つ。そら大変や。そんなに持ってきはったら、お店空っぽちゃうの?」
 ぼくは、ファスナーをあけると、コートを取り出した。黒が2着、紺が1着入っている。ぼくは、黒のコートの大きいサイズのほうを広げてみせた。
「わあ、えらいもの出してきはったやないの。こら、お小遣いではちょっと足らんのとちがうの」
 ぼくは、おもわず立ち上がった桑名様のうしろから、そっとコートを着せかけた。
「こうされると、しぜんに袖通してしまうもんやねえ。これカシミヤ? そうやろ、上等やねえ、軽いし。この毛え、なに? ビーバー。 ビーバーねえ。やわらかくてビロードのようやねえ。それで、なんぼ? いくらするのん?」
 ぼくは、自分の給料の3カ月分に相当する金額をいった。分割でもいいといった。
「ふーん、高いなあ。で、これ買うて上げたら、あなたの顔が立つのね」
「お買い上げいただけるのはうれしいですが、喜んでもらえなくてはいやです。あとになって、これよかったわあ、といわれるか、こんなしょうもないもん買うてしまって、といわれるかで、今後のおつき合いにかかわりますから。ぼく、売れたって、そんなことできらわれるの、いやですもの」
「あなた、これ買うたらわたし、後悔するおもてはるんか?」
「いえ、おもってません。きっと、あとになって、なにかのときに、これ買っておいてよかった、とおもわれるはずです」
「なら、ええやないの。あなたのポリシーなんか、ポケットにしまっときなさい。いま、お金持ってくるさかい。これでもわたし、うちの会社の役員なんよ」
 福岡君がいい加減に入ってきた道に、桑名様のお宅はあった。それも、偶然、車を停めたところに。ぼくは、それから、外商で京都に行くと、用事があってもなくても、桑名様のお宅にかならず顔を出すようになった。あの台所のテーブルについて、女傑のような桑名様から、いろいろなお話を承った。いつの間にか、親戚の子みたいな顔をしてそこにいた(それは、ほかの顧客のお宅でも同じだが)。
「いらっしゃい」
 ときどき、仕事の手を休めたご主人が、お茶を飲みにやってきた。照れ屋で穏やかな方だった。
「また、嫁さんを誘惑してはるんかいな」
 いたずらっぽい眼でぼくを見る。
「ついでに、持って帰ってくれはると、おおいに助かるんやがね」
 顧客との相性、商売はこれにつきるとおもう。