コート 15

 入社した年の秋のことだ。
 砂糖部長があわてた声をあげた。あまりあわてすぎたので、アワアワいうだけで言葉にならなかった。
 眼を大きく見開いて、口をパクパクさせながら、表のドアを指さしている。ガラスのドアの向こうに、痩せた老人がウインドウを眺めているのが見えた。
 すぐに女子社員のひとりがドアを開けた。痩せた老人は、何事もなかったかのように店のなかに入ってきた。背筋がまっすぐで、軽い足どりだった。黒いフロックコートのような上着を着ていた。
 手には鹿革とおぼしき白い手袋をはめている。そして、両手の指を胸のあたりで組むと、砂糖部長に頷いてみせた。砂糖部長は、放心した面持ちで、いらっひゃいまへ、と挨拶した。あまりに興奮しすぎて、きっと入れ歯がはずれたのだろう。
 あとで女子社員にきくと、鍋島のお殿様だといった。お殿様は、絶対、自分ではドアを開けないから、こちらが気がつくまで、ああしてドアの外で待っているのだといった。
 鍋島様なら、佐賀である。佐賀県出身の矢村海彦君に会ったとき、鍋島のお殿様がみえたよ、と教えてあげた。矢村君は、へえ、といって、佐賀県では鍋島様は特別な存在で、だれもが尊敬しているんだよ、と真顔でいった。ぼくは、手品師かとおもったよ、という言葉を、あわてて呑みこんだ。