コート 21

 ジェームズ・サーバーに「紳士は寒いのがお好き」という、文庫本にして6ページばかりの短篇がある。6ページだと、短篇でなくショート・ショートというべきか。
『そろそろ十一月の身を切るような寒い日がやってくるころ、ぼくの友人や同僚のあいだでは、ぼくが帽子もオーバーもなしで空っ風の町なかをほっつき歩いているということが、きびしい、いささか意地の悪い論評の的になっていた。』
 ジェームズ・サーバーの描く世界では、主人公を包む空気はおおむね冷ややかである。主人公は、周囲に歩調を合わせることができない。それで、しぜん浮いた存在となってしまう。
『みんなは小声でこそこそと、ときには面と向かってはっきりと、きみはただ人目を引くためにわざと他人と違った様子をしているのだと言いだした。ぼくがいつも床屋に行くのを忘れて、髪が長く伸びはじめると、こうした非難はいっそう辛辣の度を加えた。ぼくの友だちの説によれば、ぼくが寒いみじめなかっこうで町をほっつき歩いているのは、人びとが連れをひじでつついて、「ほら、あそこにいるのが変り者の文士のジェイコブ・サーマンだよ」と言うのを聞きたいためにきまっている、というのであった。』
 しかし、主人公がオーバーを着たくない、いや、事実は着られないのには、れっきとした理由がある。
『オーバーは一九三〇年に、ぼくより背が高くて口の達者な店員と、しばらくやりあった末に、とうとう負けて買わされたものだが、ぴったりからだに合わないし、かつてぴったり合ったためしがない。それがオーバーを着たくないひとつの理由だが、もうひとつの理由は、このオーバーにはボタンがなくて(買って一週間したらボタンがひとつもなくなっていた)、向かい風のとき着るのにひどく骨が折れるということである。』
 このあと主人公は、五番街のまんなかの四十四丁目の角で、飛ばされそうな帽子を押さえようとしたとたん(ほんの一瞬おそくて、帽子はクルクル回って通行の車馬の下に飛んでいった)、眼鏡をはねとばし、コートの渦に巻き込まれて一寸先も見えなくなって立ち往生し、まわりからクスクス笑われてしまう。
 ところで、ぼくが、ふーん、とおもったのは、「買って一週間したらボタンがひとつもなくなっていた」という箇所だ。ぼくが銀座のフジヤ・マツムラに入社したのは1977年のことだが、その頃のイタリー製品はとても縫製が雑だった。いま名前をあげれば錚々たるブランドだって、よくボタンがとれて、顧客から苦情をいわれることがあった。それで、クレームがきたときすぐ対処できるように、いろんな色のボタン糸を裁縫箱に用意してあった。とれたボタンをすぐに縫い付けられるようにだ。ぼくも、ボタン付けくらいならできるようになった。
 ちなみに、ぼくが20世紀の終わり頃から着ている黒のコートはイタリー製だが、いまだにボタンがとれる気配はない。おかげで、なかなかジェームズ・サーバーにはなりがたい。