号外

「海老沢は正統的な散文を書く。彼はこみいった事情を、それについてまったく知らない相手に、詳しく、わかりやすく、そしてすばやく伝達することができる。彼の叙述は明晰で、彼の描写は鮮明である。彼はずいぶんややこしい事柄を、もたもたした口調にならずに、こともなげに伝へてくれる。それは沈着冷静な斥候将校の書く報告文のやうに、簡にして要を得てゐる。(中略)海老沢の文体は、テキパキと小気味がよく、伝達力に富む。彼は輪郭をきれいに取つて、あつさりと色を塗る。読者はそれにより事情を知り、状況を把握することができる。彼が散文の基本をよく心得てゐるといふのはおほよそさういふことだつた。」
 手もとの向井敏文章読本』(文春文庫・1991年11月10日第1刷)「第九章 文章の効率」のなかに、前記の文章が引用されている。出典は、海老沢泰久『ただ栄光のために』(新潮文庫・昭和六十年初刊)解説。筆者は、丸谷才一(引用された文章をまた引用して、丸谷先生すみません)。
 8月13日に、海老沢泰久氏がなくなった。59歳だった。
 ぼくは、かつて、この『ギンザプラスワン』のなかで、海老沢泰久氏にふれたことがある(註、2006-05-14『靴』参照)。他意はむろんなかったが、少々からかっているふうに見えたかもしれない。だから、というわけでもないが、柄にもなく、哀悼の意を表したいとおもう。
(イギリスに、登場人物がなくなると、次のページを黒く塗りつぶした作家がいたそうですが、このページもそんな按配です)。