コート 26

キリマンジャロは雪に覆われた山で、高さ一万九千百十フィート。アフリカの最高峰だ。頂上の西側に豹の死体が横たわっている。こんな高所に何故豹がやってきたのか、誰にもわからない」(和田誠『物語の旅』フレーベル館・2002年刊から引用)
 この一節は、映画『キリマンジャロの雪』の冒頭のナレーションで、原作のヘミングウェイの短篇のほうには、もうちょっと長いプロローグがついている。結末も、映画と原作ではまるきり違っている。
 フジヤ・マツムラに勤務してすぐに、豹の毛皮のコートを着た方がみえたが、だれだったか記憶にない。ぼくが、豹の毛皮を見たのは、その1回きりだった。
 女優の加賀まりこさんは、デビューしてしばらくたってから、一時休業してフランスに渡った。仕事が忙しすぎて、嫌気がさしたというのが理由だった。加賀さんはパリで豪遊したが、ある日、高級ブティックで豹の毛皮のコートをオーダーした。斑の大きさを選べたので、小柄な自分に合わせて小さめの斑のものを注文した(斑が小さければ安い、とおもわれたわけではありませんよ、念のため。実際、小さい斑のほうが高価です)。そのコートは、まるで誂えたかのように、とてもよく似合った。請求書が届いたので、見ると、日本円にして1億円の金額が書かれていた。
 碧南市の鉄鋼関係の会社社長O氏のお宅には、よく自動車外商でおじゃました。ある年、おうかがいして、お茶をごちそうになっていたら、毛皮のコートを予約した、とおっしゃった。
「こないだ、主人と毛皮の受注会に行ってみゃいりましたのよ。来てくれ来てくれいうもんだから。ほんで、ショーを眺めておりゃーしたら、そりゃあ、おみゃーさん、どれもこれも素敵なコートで。おもわず予約してまったの、主人とふたり」
「ご主人もですか。どこのコートですか?」
「フェンディのミンク」
「それは高かったでしょうね」
「1着5百万円」
「おふたりで1千万ですかあ」
「娘に申しましたら、おかあさん、マンションが買える、って」
「わたしの知るお客様では、O様のそのコートが最高金額ですね」
「豹やリンクスみたいな毛皮もすすめられたけど、派手すぎて、こんな田舎では白い目で見られかねないでしょ。だから、地味にミンクにしたの」
〈蛇足〉
 キリマンジャロの豹が、なぜ、そんな高い所に登っていったのか、いま、わかるような気がします。「あこがれを知るもののみ、わが悩みを知らめ」。見果てぬ夢です。