指輪 6

 釜本次長は、なぜかすぐには返品手続きをしなかった。
 売れた形になっているものは、むろん店で売るわけにはいかないが、都内の顧客のお宅に外商に行った折りとか、自動車外商で地方に出かけたときに、積極的にこのエメラルドの指輪をすすめて、うまく売れたら伝票操作しようとおもったらしい。どこかで売れれば、そのときは安心して返品伝票が切れる。なぜなら、すぐにもう一度売り上げ伝票を上げて相殺できるからだ。それなら、たとえ返品されたとしても、社長は苦笑してすませるだろう。 しかし、釜本次長がどの顧客に見せても、この指輪はなぜか売れなかった。
 理由の第一は、デザインだった。オーソドックスにたてに付いていた石を、S酒造のオーナー夫人の注文だから、と、釜本次長は横向きに付け替えていた。委託してきた貴金属卸商も、修理に費用がかかるとはいえ、売れたほうがいいに決まっているから、下代(卸値)はそのままで石を付け替えてくれたのである。もし、もう一度石の向きをたてに戻す、というようなことになったら、当然、修理代を請求してくるだろうから、次長は直せないでいた。
 第二は、値段である。たしかに良質の素晴しいエメラルドだったが、300万円は高い(綿貫君は、「指輪なんか、5カラット以上ないと財産にはなりませんよ」といった)。1カラットの指輪なら、ダイヤでも、サファイヤでも、ルビーでも、どれでも100万円で買える。それなら3個も買えて、そのほうがいろいろ楽しめて、ずっと買い得というものだ。
 第三には、あのジンクスがあった。
 ちゃんと売れたものなら、毎月入金がある。顧客の多くは、毎月10万円、というように、決まった金額を入金してきた。しかし、このエメラルドは売れていないのだから、S酒造のオーナー夫人が送金してくることはありえなかった。何カ月かして、あまりに入金がないので、社長が怪しんで釜本次長を呼んだ。事情をきくためである。
 釜本次長は、そのとき、はじめて、オーナー夫人に返品されたことを打ち明けた(返品されたのではなく、本当は売れてなかったのに)。社長は、烈火の如く腹を立てた。オーナー夫人に対してである(そりゃあ、事実を知らないのだから、無理もありませんね)。
「もっと早く返品してくれたら、仕入れもしなかったし、物品税だってもどってきたんだ!」
「ごもっともで。わたしも困るといったのですが」
「いいお客様だけど、こういうことは別だ。税金分だけはきちんと支払ってもらうんだな」
「は?」
「物品税だよ、物品税。うちで納める義理はない。きちんと徴収しなさい」
「はあ」
「それは、君の責任だよ。売ったのは、君だ」
 翌月から、オーナー夫人名義で3万円ずつ、入金がはじまった。おかしなことに、7月と12月には、それが5万円になった。もちろん、この入金は釜本次長が自腹を切ったもので、ボーナス月にはよけいに入れたのだった。
 このエメラルドの指輪は、その後、150万円にまで値を下げた。消費税に変わって、15パーセントが3パーセントになっても、この指輪は売れなかった。そうして、いつしか20年経って、フジヤ・マツムラが廃業するときになっても、まだ、この指輪は残っていた。