指輪 10

 有金君といっしょに京都に自動車外商に行ったとき(2006-01-15「有金君 その1」参照)、じつは豆奴様のお姉様、駄々茶様(仮名)のお店に寄っていた。有金君が、ちょっと行ってみましょうよ、といったからである。
 駄々茶様は、バーを経営していた。もう芸者さんではなかったのかもしれない。旦那さんもついていないように見えた。
 お店は、祇園町南側の花見小路から1本入った路地にあった。ここにお店があることは知っていたが、入るのははじめてだった。お店のなかは狭くて、小さなカウンターしかなかった。ぼくらは、入ったすぐのところに並んですわった。まだ、夜というには早い時刻で、お客さんはだれもいなかった。
 駄々茶様は、ふたりの顔を見ても反応しなかった。ふたりとも、置屋さんをしている駄々茶様のお宅に挨拶まわりにうかがっていたのに、憶えてもらえていなかったのだ。
「なんにしまひょ?」
 駄々茶様がきいた。
「水割りください」
 有金君が即座にこたえた。
 駄々茶様がぼくを見た。
「コーラください」
 有金君が水割り、ぼくがコーラをすすっていると、二人の様子をうかがっていた駄々茶様が、おだやかに口をひらいた。
「まえに、どなたはんとお越しくださはったんどしたかなあ?」
「いや」
 と有金君が返事をした。「はじめてですけど。ぼくたち、フジヤ・マツムラの社員です」
「はあ、さよか」
 駄々茶様は、腑に落ちた表情をした。「それで、なんとなく拝見したことがあるお顔やおもったんどすな」
「こちらは、一見でも飲ましていただけるのですか?」
 ぼくがたずねた。
「それが、一見さんはお断りしてますのや。どなたはんかとごいっしょに見えはったら、ご紹介いただいたことになりますさかい、次に見えはったときはおひとりでも結構なんどすけど」
「それじゃあ、ぼくたち、断られたかもしれないんですね」
「そうどすな。けど、なんとなくお見かけしたことのあるお顔やおもて、とりあえずお入りいただいたんどす。それでも、ようわからしませんよって、おききしたんどすえ」
 そんなやりとりをしているうちに、ぞろぞろっと常連らしい一行が入ってきた。ぼくらは、顔を見合わせて、席を立った。
 お店の外に出ると、有金君が残念そうな顔つきをした。
「どうしたの?」
「いえね、ほかのお客さんがこなかったら、指輪すすめようとおもっていたんですよ。もたもたしていて、失敗したなとおもって」
「すごいな。そんなこと考えていたの!」
 ぼくは、おもわず感嘆の声をあげた(だって、ほんとにすごいじゃないですか)。
「でも、うまくいかなかったし、それに...」
「それに?」
「お勘定したら、タカシマさんのコーラ、ばかばかしく高かったし」
「いいよ、べつに」
「だって、コーラ1杯2千円ですよ!」(コーヒー1杯250円のころです)
「まあ、きみじゃないけど、いつか指輪お願いすればチャラじゃないの」
 有金君が、あきれたような表情でぼくを見た。
「べつの意味で、タカシマさんのそういう脳天気なところ、すごいですよね」
(つづく)