絵 1

 ぼくがはじめて担当した画家は、上村松篁先生だった。しかし、最初にお会いしたのは、奥様のほうである。
 昭和54年、京都に自動車外商に行かされたぼくは、入社2年目でもあり、ほとんど顧客らしい顧客がいなかった。上村先生のお宅にうかがったのは、釜本次長の紹介があったからだ。
 次長は、先生にスポーツシャツをお持ちする約束をしていたが、用事が重なって東京を離れられずにいた。それで、かわりにぼくに行かせたのだ。そのときは、イタリー製のAVONというメーカーの綿ジャージーの長袖シャツが何枚か決まった。これが高価な指輪のようなものだったら、次長はけっしてぼくを行かせたりしなかっただろう。
 このとき、奥様だけで、じつはおおいに助かったのである。もし先生もいらしたら、当然試着していただくことになって、長袖シャツの袖の長さを調節するハメになったはずだから。ぼくは、まだ、こういうことが苦手だった(使い慣れないメジャーで裄の長さを測ったり、手首の付け根のあたりに袖口を合わせてマチ針でしるししたり)。外国製品はたいてい袖が長めにできており(カフス幅の半分からひとつ分は詰める必要があった)、しかも綿ジャージーの生地ときたらいくらでも伸びるから、ちょうどよい寸法に合わせるのは至難の技だった。
 奥様は、そんなぼくを見透かしたように、「これを見本にお持ちなさい」といって、クリーニングした去年のAVONを差し出した。「これと同じ長さにしてくださればよろしいから」。
 あのとき、もし先生がご在宅で、修理に失敗したとしたら、二度と京都の土は踏めなかったにちがいない、とひそかにおもうのである。