絵 2

 麻田辨自先生のお宅にうかがうようになったのは、その翌年からだった。
「麻田辨」と書かれた表札は、入社した年の秋から挨拶まわりで見ていたが、辨という名前の人が男なのか女なのか皆目わからなかった。わからなければきけばよさそうなものだが、たしかめてみるほどの興味もなかった。新入社員というのは、そんなものである。
 自動車外商が近づいたとき、「スポーツシャツがほしいから、京都に来る人がいたら寄ってください」というお電話が入った。男物という指定だった。それなら、辨様は男性ということか。
 ぼくは、アルバイトの運転手(早稲田大学の自動車部員)に車で待機するようにいって、門の呼び鈴を押した。当時はまだ、インターホンのあるお宅はすくなくて、あのヘソのようなブザーを指で押すと、どのお宅でも、家のなかでチャイムが鳴ったり、ベルが鳴り響いたりするのがきこえた。
 挨拶まわりのときにいつも出てこられる年輩の女性が、あらあら、といいながら門を開けてくれた。この女性が奥様だった。白髪で、痩せて鶴のようだが、昔は美人だったかもしれない。
 和室の居間に通されて待っていると、浴衣姿のおじいさんが顔を出した。ボサボサの白髪頭で、髭も白髪だった。これが麻田辨自先生だった。先生も枯れ木のように痩せていた。
 まだ、お愛想もなにもいえないときで、ただ一所懸命スポーツシャツをご覧に入れた。そばに坐って見ていた奥様が、「わたしにも、ワンピースを見せて頂戴」とおっしゃった。かわいそうにおもったのかもしれない。
 お気に召したのは、イタリー製のトリコーサというメーカーのワンピースで、ウエストにゴムが入っていたが、どうせいただくのだから、といって、鋏でゴムを切ってしまった。エレガントなワンピースが、一瞬にしてアッパッパのようになった。ご本人は、おおいに気に入られた様子だった。
 つぎのとき、また京都にまいりました、といってご挨拶にうかがった。相変わらずお愛想もいえず、さりとて仏頂面というふうでもなく、学生のときのままで出されたお茶を黙って飲んだ。それでかえって先生の心証がよくなったのは、なんだか皮肉である。商売が上手だったらうまくいかなかったかもしれない。
 あるとき、「どんな絵が好きかな?」と、突然、きかれた。とっさに、ピカソが好きです、とこたえていた。辨自先生は、ほう、といったが、そのあとなんとおっしゃったのだったか、そこでストンと記憶が途切れている。