彫刻 9

 I先生は、東京造形大学彫刻科の客員教授だった。東京造形大学は、八王子にある。最寄りの駅は相原駅で、そこからスクールバスが往復している。 
 ある年の秋、I先生から電話で相原駅まで来るようにいわれた。
 約束の時間前に相原駅に着いて、駅前のロータリーの日陰で日差しをさけて待った。日陰は風があって、意外に涼しい。山が近いせいかもしれない。何台かバスが着いたが、どれにもI先生は乗っていなかった。30分ほど待つと、ようやくがに股のI先生が降りてきた。ぼくをみると、眼は笑わずに口もとだけ頬笑んでみせた。
「学生が質問にきて、ついおくれてしまって。申し訳ない」
 I先生は、それほど申しわけなさそうでもなかった。
「いや、こんなところまできていただいて、どうも。じつは、シャツをプレゼントしたい人がいるんですが、この近くの飲み屋なんですよ」
 大学に顔を出した日は、千葉まで帰るのが面倒になって、つい大学に泊まってしまう。晩飯がてら一杯やりたいが、これまでなかなか適当な店がなかった。駅の近くに居酒屋ができたので、このところ、もっぱらそこに行っている。若手の教授たちや学生も、大学に泊まり込むことが多くて、たいていその店に集まってくる。日は浅いが、そんなふうだから居酒屋のおかみさんとも馴染みになって、いろいろ世話になることが多いから、お礼がしたい。それなら、特別のものを贈ろうとおもった、と、I先生は歩きながら説明した。
 おかみさんを採寸して、用事がすんだとおもったら、いっしょに晩飯を食べて帰れ、そのつもりで来てもらったのだから、といわれた。固辞したが駄目だった。
 あとから、O先生が顔を出した(I先生が紹介してくださり、彫刻科の助教授とわかった)。色白の無口な学生がいっしょだった。
「あーあ、晩飯たべてもうひと頑張り、とおもったけど、飲んでるの見たら、きょうはもういいや。とりあえず、ぼくもビール!」
 どうせ泊まりだからどんどん飲んじゃおう、という三人を残して、ぼくは店を出た。人影の絶えた線路沿いの暗い道を、駅にむかってトボトボ歩いた。こういう道を歩くと、ぼくはよく、見てはいけないものを見る。しかし、何事もなく駅に着いた。
 翌日、ぼくは花粉症の症状が出て、とめどなく鼻水が流れた。駅前のロータリーで待つあいだ、山からの風にだいぶ当たったが、秋にも花粉症が起きるのを知った。鼻をかみながら、I先生にお礼の電話をかけた。
「あれから、まだ相当飲まれたのですか?」
「あなたがとっとと帰ってしまうものだから、仕方なくO君とふたりで日付が変わるまで飲んでいました」
「学生さんは先に帰られたのですか?」
「学生?」
「ええ、色の白い、無口なひとがいましたでしょ」
「いいや。昨夜は、あなたとわれわれの三人だけです」