銀座百点

 手もとに「銀座百点」の創刊号がある。といっても、これは「銀座百点」創刊500号記念号の付録として復刻された冊子である。紙質も創刊当時のものを模してザラ紙が用いられている。
「銀座百点」500号(No.500)は、1996年6月25日に印刷、7月1日に発行された。表4(裏表紙)に「毎月1回1日発行」とある。1冊250円(消費税抜価格)という定価も見える。
「銀座百点」No.1は、昭和29年12月20日に印刷されて、翌昭和30年1月1日に発行された。やはり「毎月1回1日発行」となっている。定価は、50円であった。
 ぼくは、フジヤ・マツムラに入社する3年前から、サンモトヤマから「銀座百点」を恵贈されていた。商船三井のアルバイトで知り合った飯出君がお洒落な男で、サンさんで当時扱っていたセリーヌのネクタイをたまに買ったが、買い物にくっついて行くだけでなにも購入しないぼくまでカードに名前を書かされた。そうして、翌月から毎月、「銀座百点」が送られてくるようになったのである。
 飯出君は、群馬か山梨の作り酒屋の息子で、和光大学の経済学部を中退していた。国にかえればおぼっちゃまなのだろうが、当時盛んだった学生運動に熱くなって、やがて冷めると同時に大学に居づらくなって辞めてしまった。それが父上の逆鱗にふれてからは、仕送りがパタッと途絶えてしまい、結構食うのに苦労している様子だった。
 もっとも、それは飯出君の口からきいた話で、おそらくは母堂がこっそり仕送りを続けていたのだろう。そうでなければ、いくらアルバイトのほうが正社員より稼ぎが多い時代だったとはいえ、セリーヌのネクタイどころではなかったはずだ。
 飯出君は、ジャーナリストをこころざしているようにみえた。長髪を肩のあたりで切りそろえて、いつも茶系の細身のスーツに茶の革靴をはいていた。(「ぼくのスーツは全部仕立てで、この襟の形もいつもいっしょです。コンチネンタルというスタイルです」)。タバコのことをヤニといい、自分のアパートは巣と呼んだ。
 夏の終わり頃、アルバイト先の京橋から、いつものように銀座にむかって歩いていた。当時、東横線の武蔵小杉から通っていたぼくは、かえりは銀座を抜けて新橋から銀座線に乗っていた。なにもなくても、ただ銀座を歩くことが好きだったのだ。(定期は渋谷経由で買ってあった。そのほうが、融通がきくからだ。朝の通勤では中目黒から日比谷線で銀座まで行き、そこで銀座線に乗換えて京橋へ行くことにしていた)。
 そのとき、飯出君が追いついてきて、いっしょに並んで歩きだした。話をしながら銀座までくると、靴下を買いたいからつき合ってほしい、といわれた。
「はじめてのぞく店なんですが、山口瞳がよく週刊誌の連載で名前をあげている店です」
 その店の前まで来てみると、そこはぼくもたまに立ち止まってウインドウのディスプレイを眺めることのある古い洋品店だった。フジヤ・マツムラといった。