銀座百点 11

 内田百間(正しくは、門のなかに月)の「東京日記 その一」は、『私の乗った電車が三宅坂を降りて来て、日比谷の交叉点に停まると車掌が故障だからみんな降りてくれと云った。』とはじまる。ここでいう電車とは、路面電車のことである。
 1955年発行の「銀座百点」No.1創刊号(手もとにあるのは、その復刻版)の裏表紙をめくると、見開きで「銀座百店会地図」が載っている。いまとちがい、銀座の道路がただ縦横に走っているだけで、加盟店があるとおぼしき場所には丸で囲んだ数字が散らばっている。そして、ページの下の部分に、その数字に該当する店名が100店分、小さく、そっけなく並んでいる。
 地図には、住所(何丁目か)はなにもなくて、目安として「スキヤ橋」、「銀座四丁目」、「至京橋」、「至新橋」と書かれているのみである。
 地図には、いまはない電車の軌道が、あのムカデの足が伸びたような線で引かれている。これは、当時、まだ都電が走っていたことをしめすものだ。
 線は、ぜんぶで3本描かれている。1本は、電通通りの銀座五丁目のあたりから、数寄屋橋を抜けて鍛冶橋方向に抜けている(註1)。もう1本は、中央通りを、新橋から銀座四丁目を通って京橋のほうに続いている(註2)。そして3本目は、晴海通りを、日比谷方面から築地にむかって、縦に走っている(註3)。
 百間先生が三宅坂を降りてきたのは、「半蔵門線(8・9・10・11系統)」で、半蔵門から三宅坂桜田門を通って、日比谷公園が終点だった。開業は、1903年11月1日。1968年2月25日にまず半蔵門桜田門間が廃止になり、同年9月29日にすべてが廃止となった。
 日比谷公園が終点なのに、『日比谷の交叉点に停まると車掌が故障だからみんな降りてくれと云った。』と書かれると、故障でなかったらこの電車はもっと先まで行くものだと勘違いする。これも内田百間のレトリックか。
 
註1:「土橋線(17系統)」
 〈新橋駅北口ー数寄屋橋ー鍛冶橋ー東京駅八重洲口ー呉服橋ー新常盤橋〉
・1904年12月8日 開業
・1944年5月4日 新橋北口・数寄屋橋間廃止
・1968年3月31日 廃止 
註2:「本通線(1・4・19・22・40系統)」
 〈新橋ー銀座七丁目ー銀座四丁目ー京橋ー通三丁目ー日本橋ー室町三丁目ー神田駅前ー須田町〉
1903年11月25日 開業
・1967年12月10日 新橋・通三丁目間廃止
・1971年3月18日 廃止 
註3:「築地線(8・9・11・36系統)」
 〈日比谷公園数寄屋橋ー銀座四丁目ー三原橋ー築地ー桜橋ー茅場町人形町
1903年9月15日 日比谷公園数寄屋橋間開業
・1904年5月15日 数寄屋橋人形町間開設
・1968年9月29日 日比谷公園・築地間廃止
・1971年3月18日 廃止