銀座百点 14

「銀座百点」No.1(復刻版)の最初の記事は、吉屋信子の「お店への憧れ」である。
『わたくしは父が地方の官吏だつたので、生まれるとから転々と父の転任地を、幼くて流浪したやうなものである。』
 吉屋信子の父雄一は、信子が生まれてからも任地を転々としている。ちなみに、信子は新潟で生まれた。
 私の母は、生前、一度だけ吉屋信子の名前を口にしたことがある。
吉屋信子は、うちの遠い親戚よ」
 ぼくは、母がときどきしてくれる昔話に、子どもながらにうんざりしていたから、もしかして気のない返事をしたのかもしれない。母の話は、それきり途絶えてしまった。
 母の父祖の地は、栃木県鹿沼である。もとは古い油問屋で、広大な敷地と田畑を所有していたのだそうで、なくなった伯父の話では、徳川様が日光東照宮に参詣するときには、うちが陣屋がわりに使われたということである。当時は、肝煎とか庄屋とか呼ばれる家だったのだろう。
 それが、おじいさんかひいじいさんの時代に、店をまかせていた番頭に実印を持ち出され、店はおろか家屋敷、田畑にいたるまで、一切合切盗られてしまったそうなのである。
 一家は、鹿沼を追われ、一山越えた群馬県沢入(そうり)という土地に流れてゆく。地図では、足尾のすぐ下になる。母は、だから群馬の生まれということになる。
 おじいさんの時代に、足尾の銅山がめざましい繁栄をみせる。いつしかおじいさんは、山師と呼ばれる山の売買をする人になっており、胴巻きに札束を忍ばせて出かけては、トランクに札束を詰めて帰ってくるようになった。商才があったのか、おもしろいように儲かって、おばあさんは床下に隠したお金が心配で、物音がしてもドロボーとおもって飛び起きたらしい。
 やがて、足尾銅山鉱毒事件が起きるが、もうその頃には、おじいさんは足を洗っていたようである。
 吉屋信子の父雄一は、明治35年下都賀郡長として転任している(信子も栃木町に移った)。雄一が下都賀郡長になったとき、すでに足尾鉱毒事件ははじまっており、雄一は農民と国との板挟みになって、たいそう苦慮したらしい。
 で、吉屋信子との接点は、どうにもあいまいのままである。あれだけ儲けたおじいさんは、ちゃんと銀行に預けて心配なくなったけれど、やがて戦争で資産凍結されて引き出せなくなり、解禁されたときには貨幣価値がいちじるしく変わってしまって、結局、手もとに戻った金額はごくわずかだったそうである。