銀座百店 号外2

 吉行淳之介に、「永井龍男の文章」という一文がある(「毎日新聞」夕刊 昭和四十二年一月四日発行)。脱線ついでに紹介してみる。
永井龍男氏の文章は、地味で簡潔で、そこには人目を惹く余分な飾りのようなものは一切ない。人間の目からみて、いかにも無愛想な姿をした植物があるが、そういう植物の茎か葉を眺めているような感じがある。
 しかし、くわしくその文章を読んでゆくと、地味な表面に、底のほうから滲んでくるものがあることが分り、そこに一種独特の体温のようなものがある。また、底のほうから光ってくるものもあり、その光には意外にはなやかさや場合によると、なまめかしさを予感させるものがひそんでいる。』
『氏の描く世界も、地味なものが多いが、植物がその茎のてっぺんに花を咲かすように、その作品を読んでゆくうちにかならず大輪の花が咲く箇所に行き当る。私は氏の短篇に接するとき、
「いまに花が咲くぞ」
 と、たのしみながら読んでゆく。』
『氏の処女作と呼ばれている十九歳のときの作品に「黒い御飯」というのがある。「小学校も卒へる事が出来ずに、小さい時から工場通ひを仕続けてきた兄が、工場の帰りにカバンを買ってくれた。A社の給仕に出てゐる二番目の兄がそれへ名前を書いてくれる」という文章ではじまる作品で、貧家に生れた少年の家庭生活が描かれている。』
『翌日から小学校一年生になって学校にかようようになる「私」の着物が余りに汚れているので、次兄の古い紺がすりを父親が染め直してくれることになる。
「子供の着るものなんか、さっぱりしてゐさいすればなんでも好いんだ」
 と言って、父親は台所の釜を使って、そのかすりを染め直してくれた。その翌日、きれいに洗ったその釜で、母親が飯を炊くが、その御飯はうす黒く染まった。「赤い御飯のかわりだね」と、誰かが言った。
 こういう場面が、私のいう「花が咲く」というところである。』
『永井氏の作品は、(中略)こまかい襞の中に現実生活のリアリティがいっぱい詰まっている。氏の作品の襞の微妙さについて、説明するのはきわめて難しい。それが分る人には、何も言わなくても分るのであり、分らぬ人はいくら説明しても分ることではない。』
『氏自身が文章について語っている言葉に「文章というものは、頭の中にあるものを、はっきり現すことができれば、それで十分だ」という意味のものがある。(中略)前記の紺がすりを染め直す父親の言葉に似て、
「文章なんてものなんか、こっちの考えていることが伝わりさえすれば十分だ」
 ということであろう。(中略)つまり、氏の微妙さは、氏の身にしみこんで備わっているもので、これを感得できるかどうかが氏の読者になれるかどうかの資格である。』
 もともと新聞の夕刊の、たぶん文芸欄に寄せた文章で、たいして長くはない文章をこうしてズタズタに切って紹介するのは、作者にたいして手ひどい仕打ちともおもえるが、「こっちの考えていることが伝わりさえすれば十分だ」から、あえて失礼します。吉行さんの文章を味わいたい人は、どうかお近くの図書館で「吉行淳之介全集」にあたってみてください。