銀座百点 号外3

『まず私自身のことからはじめるのだが、私が若いころカストリ雑誌の編集者をしていたとおもっている人が多いようである。それはそれでいいのだが、私の入社した新太陽社は「モダン日本」という戦前派には周知のしかるべき雑誌を出していた。もっとも、その瀟酒な雑誌は戦後混乱期を生き延びることができなくて倒産し、また新雑誌をつくったりして、しだいに怪しげになってゆくのだが。』
永井龍男氏との縁」(「『永井龍男全集7』月報」(講談社)昭和五十六年十月刊)を、吉行淳之介はこう書き出す。
『なぜ、こんな私ごとを長々と書くか、というには、わけがある。この社は菊池寛氏に可愛がられていた文藝春秋社の社員の馬海松氏が、同社で創刊した「モダン日本」をもらい受けて独立したものであって、社の幹部は文藝春秋社に関係の深い人が多かった。』
『そういう人たちと酒を飲んでいて、しだいに酔ってくると、そのうちの誰かが私のことを、
「君は将来、永井龍男のようになるな」
 と言い、
「いや、菅忠雄のほうに似ている」
 と、ほかの誰かが言う。
 そういう言葉を何度も聞いた。
 昭和二十年代のことで、永井龍男氏は小説家で、以前「オール読物」の名編集長だったという知識はあったが、菅忠雄という人がどういう人か知らなかった。』
『こういうことは、永井さんは初耳であろう。いずれにせよ、「将来、永井龍男のようになる」ということは、夢物語のようなものであった。
 その後、四分の一世紀経って、その永井龍男氏と芥川賞の選考会で同席するようになろうとは、まったく不可思議なことが起るものだ。』
 その永井龍男と、吉行さんは麻雀の卓を囲むことになった。
『もう十数年前になるが、永井龍男大岡昇平両氏と阿川弘之と私とで、わざわざ日を決めてマージャンをしたことがある。当時両氏にたいして私は面識のある程度だったのだが、阿川が大岡さんとマージャンの話をしているうち一戦交えることになり、私が狩り出されたという成行だったとおもう。』
『私たちのマージャンの溜り場が赤坂にあるが、そこで昼間二チャンほどやり、そのまま終りになって酒を飲みに行った記憶もない。』
『勝負は阿川と私がすこし負けたようにおもうが、すべてが朧げで白昼夢に似ている。一つだけはっきり覚えているのは、マージャン台の白い布に折り目ができていて、それがたまたま永井さんの前に存在していた。永井さんはしきりにそれを気にされていたが、ついにゲームを中断して、牌をいったん片づけ、布にアイロンを当てることを命じられた。』
『その永井さんの振舞は、神経質というよりも、「マージャン台の布たるものが、たたみ目があるのは許しがたい。それはすでにマージャン台の布たる資格を失っている」という主張として、私の印象に残っている。』