銀座百点 号外4

 永井龍男は、1904年(明治37年)5月20日、神田猿楽町に生まれた。父教治郎、母ヱツ。四男一女の末っ子である。例によって、今回もまた横道。
「東京生まれの文人たち」と副題のある大村彦次郎著「万太郎 松太郎 正太郎」(2007年7月25日 筑摩書房刊)の第6章「東京下町生まれの文人たち」から引用します。
『父親が病弱だったので、欧文植字工の長兄と新聞社の市況記者だった次兄が二人で家計を支えた。十三歳で高等小学校を卒業すると、蠣殻町の株屋に奉公に出たが、父の結核が感染していたので、三カ月で店をやめ、家に戻った。そのあと数年間、医者通いをしながら、自宅で療養を続けた。永井の最も苦しい、人にも言えぬ時期だった。この間、文芸書に親しみ、一葉の全集などを愛読した。』
『十六歳のとき、万年筆のサンエス本舗が出していた「サンエス」という文芸誌の懸賞に応募して、入選した。十五枚足らずの短篇であったが、選者の菊池寛が手放しで褒めてくれた。これが処女作の「活版屋の話」である。』
『十八歳、次兄に奨められて、帝劇の脚本募集に一幕物の「出産」という作品を書いて投稿し、当選した。(中略)賞金は三百円。これに自信を得、短篇二つの草稿を持って、小石川原町の菊池寛宅を訪れた。終生の恩人菊池寛とはこのときが初対面で、持参のうちの一篇「黒い御飯」が菊地の推挽を得て、「文藝春秋」誌上に発表された。大正十二年七月、関東大震災の二カ月前であった。』
『震災で永井の一家は無一物になり、府下豊多摩郡野方の義兄宅へ転じた。小学校同級の波多野完治神田神保町の厳松堂(註、原文誤植。正しくは、巌松堂)という古書店の息子で、(中略)荻窪の別宅に避難していたが、一日、彼を訪ねたところ、偶々そこへ来合わせた波多野と同級の小林という一高生を紹介された。永井の二歳年上だった。』
『帰路は高円寺に家のある小林と一緒で、文学の話をし、意気投合した。小林も神田猿楽町の生まれで、永井の生家の目と鼻の先にいたが、まもなく芝白金に移ったので、これまで面識がなかった。菊池寛小林秀雄の二人にめぐり逢えたことは、その後の永井の人生を大きく変えた。』
『震災の翌年、永井は小林に誘われ、同人誌「山繭」の創刊に参加し、短篇や戯曲を発表したが、このとき堀辰雄を知った。その頃、新聞社を罷めた次兄が阿佐ヶ谷駅北口近くに中華料理店「ピノチオ」を開店したので、出前持ちなどして、兄の仕事を手伝った。昭和二年三月、横光利一らの紹介で、文藝春秋社が創刊する文芸誌「手帖」の編集に従事した。』
文藝春秋では菊池寛をはじめとして、久米正雄直木三十五横光利一らに可愛がられた。永井は東京の下町っ子らしく、歯切れがよく、声の調子に張りがあった。気が回り過ぎ、少々短気なところもあったが、編集のセンスは抜群によかった。』
『編集者として文藝春秋社に在職すること十余年、「オール読物」などの編集長を歴任した。』
『敗戦後、文春での役員経歴が抵触し、公職追放に遭い、やむなく筆一本の生活に転じたが、これがむしろ幸いした。彼本来の蓄積した余力が噴出し、マイナーといわれながらも、独自の短篇世界を作り上げた。』
『永井は小説以外に、俳句にも長じた。東門居と号し、句集の他に「文壇句会今昔」などの著作があった。宗匠万太郎の後塵を拝することなく、彼独自の句境を拓いた。』
(小学校しか出ていない年下の青年の文学的センスをきちんと認めた一高生(いまの東大教養学部小林秀雄は凄い! 同様に、小学校しか出ていない男を正社員に採用した菊池寛(気に食わんやつとは、クチキカン)も偉い!)。