銀座百点 号外5

 平成8年8月に新潮文庫に収められた「井伏鱒二対談集」(この対談集は平成5年4月新潮社より刊行された)に「文学・閑話休題」と題する永井龍男との対談が収録されている。志賀直哉がなくなったばかりのときで、志賀直哉の話からはじまっている。大村彦次郎氏の「万太郎 松太郎 正太郎」にあった永井龍男に関する逸話を、本人の口からきいてみることにしよう。


永井「志賀さんには、あなたは何度か会ってるんでしょう。」
井伏「うん、戦後、河盛さんに誘われて訪ねて行った。(中略)志賀さんは偽物と本物とを見分ける人だから、はじめ僕はよすと言ったのだが.....。(笑)」
永井「なにか、そういう話を聞いた記憶がある。」
井伏「ちょっと恐いような気がしてね。」
永井「僕は二度ですね。最初は『文藝春秋』に入社して何年目か社内の関西旅行に行ったときだから二十代です。」
(中略)
井伏「そのとき、あんたがこっそりうしろへ行って、志賀さんの匂いを嗅いだとか......。」
永井「志賀さんが座敷を通るたびに、志賀さんってどんな匂いがするのかと思って......そういうもんだったなあ、志賀さんて。」


永井「志賀さんが亡くなってからお葬式のころまで、とてもいい秋晴れの天気続きだったでしょう。二十六日のお葬式にはお詣りするんでしょうと妻が言うから、俺は行かん、とてもたいへんな人だろうし、うちで山でも眺めながら志賀さんを偲ぶよと言ったら、それでは当日の晩酌は抜きましょうねと言うんだ。そんなさしでがましいことを言う奴じゃないのですよ、うちの女房というのはね。そんなことを決して言ったことはないんですが、晩酌は慎んでいただきましょう、お葬式にいらっしゃらないのならと言うので、それでは俺は、駅前に行って追悼するからと冗談になったが、かみさんなんて、文学のぶの字もないのだけれども、志賀さんは神様だなという感じがいつのまにか亭主から乗り移っていた。そういう感じがちょっとおかしかったですよ。」


永井「昭和二年、二十三歳で文藝春秋社へ入って、翌年「創作月刊」の編集にまわった。この文芸雑誌は稿料なし、新人の発表機関ということで、なかなか編集の辛い雑誌でした。たまたま井伏さんの『山椒魚』を読んで感動したので、なにか書いてくれぬかと手紙を出したのが最初です。稿料なしの雑誌に、井伏さんは『朽助のゐる谷間』という短篇を送ってくれた。出会ったのはそれから後のことです。(後略)」


井伏「小林君とはどういうことで知り合いになったの?」
(中略)
永井「波多野完治という(中略)僕の小学校の同級生で、彼は巌松堂という古本屋の息子なんです。(中略)彼の住いというのが荻窪西荻窪にあったのですよ。遊びに来ないかと言うので行くと、(中略)だれか友達が訪ねてきた。小林という一高の同級生で、ちょっと変わってるやつだけどもいいかいと言うから、どうぞと言ったら、小林秀雄が入ってきた。すごい恰好して(頭の髪をもじゃもじゃにした恰好)それが入ってきて。」
(中略)
永井「波多野のところからいっしょに帰ったんですよ。僕が志賀さんが好きだ、佐藤春夫が好きだなどと言うと、向こうも好きだということでね、話したのがはじまりなんです。」
井伏「ああ、そうか。」
永井「だから関東大震災というのはね、それからの僕の歩く道を決めたようなところがあるんです。」
(つづく)