銀座百点 号外7

「今度、非常に気持のいい全集が出ると思ひます。」
 井伏鱒二は、「永井龍男全集」の推薦文をこう書き出します(註:昭和五十五年一月二十一日発行「永井龍男全集」全十二巻(講談社)内容見本)。
永井龍男は粋な作品を書きます。粋とは何か。私の蔵つてゐる辞典に、こんなやうに書いてありました。
ーー粋とは意気から転じた語。人間的にも洗練され、気持がさつぱりして垢ぬけてゐること。色けもあるが、内輪に秘めて人情の機微に通じてゐること。野暮の反対。
 私は野暮ですが、永井龍男の作品には注目させられてゐます。彼は、俗受けを避け、人真似を避け、甘さを抜きで判断し、歯切れのいい文章で粋な作品を書きます。」
 はにかみやの永井龍男が、おもわず赤面しそうな褒め言葉ですが、井伏鱒二は本気です。
永井龍男の作品を語るには、極めて初期の、しかも習作の作品を問題にしなければならないと思ひます。彼は早くから天性の資質を見せる作品を書きました。」
「大正十一年十月、帝国劇場が募集した懸賞脚本を、締切間際に一晩で書きあげて、自分で帝劇の受付へ持つて行きました。神田の自宅から歩いて届けに行ったといふことです。本名で投書するのをためらつて、愛読してゐる作家の名を借りて知江保夫(チエホフ)と仮名にしたさうです。永井君、十八歳の年でした。」
「この懸賞脚本も選者は、坪内逍遥幸田露伴小山内薫久保田万太郎でした。僅か十八歳の知江保夫の作品が、脚本には人一倍きびしかつた大先輩の鑑識に適つたのです。」
「大正十二年、十九歳になつて初めて永井龍男の本名で、『文藝春秋』に短篇『黒い御飯』を発表しました。絶妙な作品でした。」
「その後は同人雑誌『青銅時代』『山繭』などの同人として習作を発表する一方、文藝春秋社に入社、終戦まで二十年間、編輯の仕事をしながら新人の発見に努めました。その影響を多分に蒙つてゐる作家は、今でも次から次にその名前を挙げることが出来ます。」
文藝春秋社に在籍中の当人は、ときたまに作品を雑誌に出しました。書かなくてはならぬ。俺は書く。書きたいなあと、血が騒いだためであったと思ひます。戦後、文藝春秋社を離れてからは、血が騒ぎ通しに騒いでゐるやうでした。」