銀座百点 号外9

 井伏鱒二に「風貌・姿勢」と題して、友人知己のことを書いたエッセイがある。それは、一筆でさっと仕上げたスケッチのようなものである。
 例によって、永井龍男について触れた部分を引用することにする。


「彼の旧友のいふところによると、永井龍男は高邁な精神を持つてゐたといふが、彼が常に潔癖で正義派気質であるのは、その高邁な精神の痕跡を示すものであらう。彼は高邁な人や作品に出会すと、たちまち感動してしまふが、彼自身は現在では何ごとに対しても実行力を失つてゐると自分で信じてゐる。彼の友人小林秀雄が激賞するところの好短篇『絵本』を発表して以来、永井龍男は殆ど小説を書かない。彼があまり自分自身に対して苛酷であり且つ辛辣すぎる結果であらう。私は切に忠告するが、もすこし彼がのほうずない精神になることを希望する。われわれは結婚する場合にさへも、若気のあやまちからでなくしては相手を選ぶことができないではないか。」

 
 このあとに、永井龍男がカフェに行ったが、やがて帰ろうとすると彼の帽子が見つからなくなった逸話を付け加える。
 たしかにかぶってきて、どこかに置いたはずなのに、どうしても見当たらない。さんざ捜した挙げ句、隣りの席の女給の尻の下からその帽子が現れた。


「すでに帽子は扁平に押しつぶされ、気のきかない女給の体温は帽子の皺の間に残ってゐた。永井がかんかんに憤慨したのはいふまでもない。彼はこんなになった帽子は不潔だから棄ててしまふと言った。
 けれどわれわれは、こんな新しい上等な帽子を棄てるのは残念ではないかといつて彼を説き伏せ、扁平につぶれた帽子の形をなほした。霧を吹きかけると、皺はわからなくなつた。気のきかない女給でない方の別な女給は、(彼女はひどく酔つぱらつてゐたが)両手に一ぱい食塩をすくつて来て、
『これをぶつかけて、きよめちやいませう。永井さん、いいでせうね?』
 さう言つて、永井の帽子へ食塩をぶつかけた。永井は非常に満足であった。
『もう一ぱいぶつかけろ。どつさり持つて来てくれ。』
 女給はもう一ぱい食塩をすくつて来て、
『お尻なんかにしいて、出世のさまたげですわ。この通りどつさりぶつかけちやいませう。』
 彼女は帽子へ食塩をぶつかけ、吹雪のなかをやつて来た人の帽子みたいに白くして、それをブラツシできれいに掃つた。気のきかない女給はひどく悄気て、彼女自身が迂闊であつたと懺悔した。」

 
 後年、赤坂の旅館で麻雀をしたとき、白い布の皺を気にして、いったんゲームを中断してまでアイロンを掛けさせた「潔癖さ」は、たしかに本物だったようである。