銀座百点 号外17

 本棚を掃除していたら、「銀座百点」のバックナンバーが出てきた。見ると、2007年5月号(No.630)である。わざわざ本棚に挟んであるからには、なにか気になる記事が掲載されていたのだろう。目次をひらいて、目を通した。40ページ「今月のエッセイ」に海老沢泰久「五百円のスニーカーとの別れ」が載っている。海老沢泰久氏なら、この「ギンザ プラスワン」でも2回ご登場願っている(註:2006-05-14「靴」、2009-08-16「号外」参照)。また、長くなるが、恐縮しながら引用してしまう。


 銀座の酒場に出入りするようになって、かれこれ三十年になる。
 そのうち、二十代の後半から三十代の後半までの十年ほどは、どこの店にもジーパンにジャンパーという格好で出入りしていた。
(中略)
 むろん、靴はスニーカーだった。
 あるとき、新橋駅の構内でスニーカーの安売りをしているのを見つけて、紺色のを五百円で買ったことがあった。それを持ってなじみの店に行き、五百円で買ったと興じていると、山口瞳さんがはいってきた。山口さんも紺色のスニーカーをはいていた。
 興じついでに、
「山口さんのもこれと同じですね」
 というと、
「バカ、おれのは◯万円だ」
 と一喝された。
 山口さんのスニーカーはバックスキンだった(註:それはスイス製バリーのスエードのカジュアル・シューズ。もちろん、フジヤ・マツムラでご購入)。


 その山口瞳さんに、銀座の洋品店でネクタイを買ってもらったことがある。それから十年以上して、その洋品店から独立してワイシャツの仕立屋をはじめたという人から挨拶状をもらった。そこには、ぼくが山口さんと一緒に洋品店を訪れたことと、そのときあまり立派とはいえないスニーカーをはいていたことがしるされていた。ぼくはその独立した人を覚えていなかったが、その人はぼくの立派ではない、たぶん五百円のスニーカーのことまで覚えていたのである。きっと、そんなスニーカーをはいて銀座の高級洋品店に出入りする人間はほかにいなかったからだろう。


 海老沢泰久氏は、昨年8月13日になくなってしまった。だから、言い訳したくてもできなくなった。
 海老沢さん、ぼくが覚えていたのは、「汚い靴」をはいておられたからではないですよ。そりゃあ、ぼくみたいなタイプの人間は、それを面白がって笑い話にしたりしますが、そんなことは別のことです。ぼくが覚えていたのは、そのときの海老沢さんに自分と同じにおいをかいだからです。