銀座百点 号外45

 しかし、田村さんは、フジヤ・マツムラにはみえなかった。それどころか、数年後、稲村ヶ崎からも忽然と消えてしまったのだった。
 田村さんのお宅に矢村君がうかがったとき、絵描きだという若い女性が玄関に現れて、矢村君が持参した九州のお酒をうやうやしく受け取ると、ありがとうございまする、と馬鹿丁寧な口調でお礼をいったという。
「その人、なに?」
 と、ぼくはきいた。
「いや、ぼくにもわかりませんが、どうやら住み込みで田村さんちにいるみたいでしたよ」
「で、奥様は?」
「いらしたとおもいますけど、そういえばでてこなかったかな」
 昭和五十三年に河出書房新社から「書斎の死体」というエッセイ集が刊行されるが、その表紙の絵を描いた人がどうやら矢村君の会った女性らしい。ベッドに、さながら死体のように目をつむって、長々と寝そべっている詩人の姿がデッサンされている。
田村隆一全集」第六巻の「解説エッセイ」には、こうある。
「鎌倉定住二十七年のうち、東京・小金井のアパートで過ごした約一年があった。昭和五十六年一月、ある雑誌の女性編集者と駆落ち同然に稲村ヶ崎の家を捨てたのだった。逃避行。夫婦間の機微、複雑な事情について忖度することはできないが、そこが詩語の生成を育む”詩人の館”ではなくなったのだと想像される。東京西郊の町での隠棲からも何篇かの詩が生まれた。」