銀座百点 号外52

 商船三井のアルバイトを1月でやめても、ぼくはまだ学生だった。それどころか、その年の7月に銀座の洋品店フジヤ・マツムラに就職したあとも籍だけは大学に残してあり、どうやらまだアルバイト気分が抜けないでいたらしく、いやなら学生にもどるつもりだったようだ。
 稲村ヶ崎田村隆一先生のお宅を訪問したのは、2月27日のことだ(詩集の署名に、1977年2月27日と添えられている)。その前日に、ぼくはどこかの面接を受けている。田村さんを訪問して、詩集とエッセイ集にサインをもらおうと提案したのは、矢村海彦君だった。矢村君は百合ヶ丘に住んでいたから、前日に矢村君の下宿に泊まって、藤沢にでて江ノ電稲村ヶ崎に行くことになっていた。
 やむをえず、面接会場に田村さんの著書を5、6冊、紙袋に入れてさげていったが、試験官は面接を受けにきた男が手提げの重そうな紙袋をぶら下げて現れたので、「え?」という表情をした。ここの試験は、失敗した。
 翌日、スーツにネクタイといった格好で田村さんを訪ねた。いやだったけど、仕方がなかった。このときの印象で、田村さんはぼくをまじめな男とおもいこんだようだ。
 後日、矢村君がひとりでうかがうと、ベッドにのびた田村さんが「あの男はまじめだ」「彼はまじめな男だ」と、しきりにぼくをほめるので、否定するつもりで「でも、彼は小説家志望なんですよ」といったという(「小説なんか書きたいとおもってるやつが、まじめなはずないじゃありませんか」という意味合いをこめた、とあとで矢村君はいった)。
「彼は小説が書きたいのか。そうか」
 と、田村さんは目をつむってしきりに頷いてから、
「しかし、小説はむずかしいぞ。小説を書くのは大変なことだ」
 といって眠りそうになったので、矢村君はあわてて辞去してきた。
「とにかく、こんなちゃらんぽらんな人を、まじめだ、まじめだとなんどもいうから、ぼくはちょっと嫉妬したな」
 矢村君は、署名をもらってくれたぼくのぶんの本を渋谷の喫茶店トップで返しながら、そういって笑った。