銀座百点 号外56

 さがしものは、まだ見つからない。
 ぼくが怠ることを覚えたのは、やはり高校を卒業して浪人生活を送るようになってからのことだ。
 いまはなくなってしまったが、市ヶ谷に城北予備校という予備校があった。お堀のそばの左内坂を登りきった、通りの右側にあった。手前が江上トミ料理学院で、そちらはいまもあるとおもう。
 城北予備校のOBに、安岡章太郎丸谷才一がいた。もっとも、二人が在籍していたのは戦前である。安岡章太郎がここに学んだことは知っていたが、丸谷才一もいたことは、後年、ずいぶんたってから知った。丸谷先生は、銀座フジヤ・マツムラの顧客で、奥様ともどもぼくが担当した。それで、丸谷先生にお手紙を書く用事ができたとき、城北予備校の後輩だと名のってから、ペンネームをつけるなら「高島左内」にしようとおもいます、と打ち明けた(「左内」は、「しゃーない」と読んでください)。
 で、「みんな不良少年だった」の研究に、安岡章太郎が城北予備校にいたころの話を書こうとしているのだが、参考にしようとおもった本が見つからない。