銀座百点 号外57

 安岡章太郎は、年譜(筑摩書房刊新鋭文学叢書「年譜」)によると、1920年大正九年)に高知市帯屋町の病院で生まれている。父親は、陸軍の獣医だった。
「生後間もなく、父親の勤務地である千葉県国府台か小岩かへ移される。以後、善通寺、市川、小岩等を転々とした記憶がかすかにのこっている。」
 
 1925年(大正十四年)、5歳のとき、朝鮮京城に移る。
 
 1927年(昭和二年)、7歳で京城府南山小学校入学。
 
 1929年(昭和四年)6月、9歳のとき、青森県弘前市へ移る。第二大成小学校へ転校。
 
 1930年(昭和五年)3月、東京府下世田谷池上へ移る。第四江原小学校へ転校。9月、弘前へもどり、もとの第二大成小学校のもとの学級に再転校。
 
 1931年(昭和六年)4月、東京市青山南町六丁目へ移る。青山小学校に転校。さらに2カ月後、青南小学校に転校。


「合計六回の転校もあって学校に嫌けがさし、学校へ行くふりをして青山墓地をうろついたりする。」


 1932年(昭和七年)、「目黒区上目黒へひっこす。」
 
 1933年(昭和八年)4月、第一東京市立中学校入学。「第一学期の成績、平均丙。以後、毎年及落級(ママ。級は線の誤植か)上にあり、大いに苦しむ。家、世田谷区代田二丁目にひっこす。」
 
 1934年(昭和九年)、「一月、成績不良、素行かんばしからざる故をもって、一年C級の担任、英敏道先生宅へあずけられ、その監督下におかれる。英先生は国漢の教師であると同時に、赤羽区道灌山清勝寺の住職である。以後、中学三年の二学期まで、読経の声、木魚、鐘の音をきいてくらす。」
(つづく)