銀座百点 号外59

 1941年(昭和十六年)「四月、慶応大学文学部予科入学。浪人時代の延長で、第一学期はほとんど登校せず。江戸趣味探求と称して築地小田原町に下宿。そこから毎日、西銀座電通前のコーヒー店「娯廊」へかよう。しかし、さすがにそんなことが嫌になり、古山、倉田等と絶交。第二学期から代田二丁目の家にもどされ、日吉の予科へかよいはじめる。級友に石山皓一、小堀延二郎あり。徳田潤とも知り合う。ーーこの年、十二月八日、「大東亜戦争」はじまる。ちょうどその朝、小堀、石山、両名から同人誌をつくる相談をもちかけられる。雑誌の名は「奇型」というのだったが、のちに「青年の構想」、さらに「青馬」というふうに変る。私は時代小説「首斬り話」(十八枚)をのせる。」
 
 1942年(昭和十七年)、「七月、「青馬」第二号を出す。この雑誌は六十四ページばかりのものだったが、かなりの反響をよび、矢崎弾、保田与重郎西条八十恩地孝四郎、等の諸家から激励のハガキをもらった。けだし死亡した同人田中慶治の詩、二十編ばかりを収録してあったので、この二十歳たらずで狂死した田中の才能はいま考えても相当のものだったと思う。」
 
 1943年(昭和十八年)、「三月、予科二年から三年にすすむ試験に落第。ーー古山等とは絶交したが、依然として奇妙な求道精神から吉原、玉の井等の悪所がよいを止めず、性病にかかることを芸術家の使命と心得るありさまだった。
 六月、徴兵検査をうけ、甲種合格。」
 
 1944年(昭和十九年)「三月、東部第六部隊に現役兵として入営、ただちに満州第九八一部隊(歩兵第一連隊)要員として北満孫呉へつれて行かれる。
 八月、胸部疾患で入院、その間に部隊はフィリッピンに移動し、レイテ島でほとんど全滅した。」
(つづく)