銀座百点 号外60

 1945年(昭和二十年)、「三月、内地送還になり、七月に金沢の陸軍病院で現役免除となる。
 十月、藤沢市鵠沼に住みはじめる。脊椎カリエスにかかったが、医療費など全然ないので医者にもかからず、寝たり起きたりで、進駐軍労務者になったりした。」

 
 1946年(昭和二十一年)、「五月、父が南方から復員。生活はいよいよ窮乏する。九月、作家今井達夫氏に離れの一間を貸す。」

 
 1947年(昭和二十二年)、「十一月、接収家屋の番人になる。カリエスで体は病みつづけたが、収入皆無のため空屋の番人にでもなるよりしかたがなかった。番人は一年あまりやっていたが、翌々年三月、カリエスが悪化してそれも出来なくなり、今井氏から金を借りコルセットをつけて寝込む。」

 
 1950年(昭和二十五年)、「一月、今井氏にすすめられ、枕もとに原稿用紙を用意して小説を書きはじめる。「ジングルベル」、「陰気な愉しみ」、「ガラスの靴」等を書く。」

 
 1951年(昭和二十六年)、「六月、奥野信太郎氏の手をへて「三田文学」六月号に「ガラスの靴」を発表。北原武夫氏、庄野誠一氏らにみとめられ、芥川賞候補作になった。ただ自分としては、急に日の当る場所にひき出されたようで何も書けず、「三田文学」十月号に「ジングルベル」を発表しただけで、この年をおわった。」

 
 1952年(昭和二十七年)、「一月、「宿題」を「文学界」二月号の新人特集号に発表。同じ号に三浦朱門、武田繁太郎、小山清らの作品もならんでいた。「第三の新人」といわれだしたのはこのころからかもしれない。その後、しばらくして突然、三浦朱門から手紙で会いたいと言ってきた。同人誌「現代」にいっしょに参加しないかという誘いで、同人には安部公房、真鍋呉夫、前田純敬、石浜恒夫阿川弘之庄野潤三島尾敏雄、等の名が上っていた。結局、「現代」には参加しなかったが、こんなことから庄野、三浦、石浜、それに吉行淳之介などと知り合う。
 同年十月、鵠沼の家を引きはらい、高知へかえる父母と別れて、大森新井宿の下宿にすみはじめる。「文学界」に「愛玩」発表。」
(つづく)