銀座百点 号外61

 1953年(昭和二十八年)、「三月、二年間嘱託をしていたレナウン商事の仕事をやめ、創作に専念する。四月、「新潮」新人特集号に「陰気な愉しみ」、六月「群像」に「悪い仲間」を発表。七月、短篇「ハウスガード」で時事文学賞、「悪い仲間」、「陰気な愉しみ」で第二十九回の芥川賞をうけた。ーーこのころ、前記の三浦、吉行らのほかに、小島信夫結城信一五味康祐近藤啓太郎、進藤純孝、村松剛奥野健男、服部達、それに三田時代からのクラス・メートでフランスから帰ってきたばかりの遠藤周作などと知り合い、大体一と月に一度ぐらいは定期的に顔を合せるようになった。短編集「悪い仲間」文藝春秋新社から刊行。」

 
 1954年(昭和二十九年)、「四月、平岡光子と結婚。ようやくカリエスも全治し、コルセットをはずす。ろくに治療らしい治療もせず、ここまでよくなったのは生来頑健な質のせいか。とにかく、このころで私の「戦後」はおわったらしい。
 この年の主な作品は次のとおりーー。「サアヴィス大隊要員」(「新潮」二月号)。「吟遊詩人」(「文学界」四月号)。「旅愁」(「群像」六月号)。「うらない師」(「文学界」十一月号)」

 
 1955年(昭和三十年)、「三月、妻と高知へ母を見舞う。毎月、あちこちの新聞や雑誌に、短編小説や小品、雑文を発表。ようやく売文稼業然とした生活がはじまる。主な作品はーー、「夢見る女」(「群像」新年号)、「秘密」(「文芸」新年号)、「青馬館」(「文学界」三月号)、「青髭」(「中央公論」四月号)、「マルタの嘆き」(「新潮」五月号)、「サアカスの馬」(「新潮」十月号)。短編集「青馬館」(河出新書)」